悲しみの果て〜chapter1〜
緑が鮮やかなグリーンからビリジアンの輝きへと見事な変化を遂げ、世の中の傘という傘がいっぺんに花開く梅雨の季節。幸彦は作業着の一番上のボタンを外し、手にしたモップで身体を支えながら窓の外を見つめた。
もう3日も雨が降り続いている。
現場もなかなか進まず、工期が延びて大変だろう。
幸彦はそんな思いが頭を一瞬よぎったが、無表情のまま再びモップで床を拭きはじめた。
「窓が開けらんないから乾拭きも頼むよ」
少し先で同僚が幸彦の方を見て叫ぶように言った。
叫ぶような、という表現が本当に正しいほど上杉建設工業の本社1階フロアの広さを窺わせる。
5メートル以上の高さの天井が彼の声を良く響かせる。
まだ早朝ということもあり、会社には庶務部清掃課の人間以外は誰も出社していなかった。
庶務部清掃課の基本的な業務のひとつがこの早朝清掃だった。
夜中の4時出社、5時から2時間かけて本社ビル内をくまなく掃除する。
7時からは各フロアのトイレ掃除。
トイレ掃除については営業部のあるフロアのトイレを一番先に掃除することが決まりとなっていた。
そして出社の遅い工務部や総務部のフロアへ降りながら短時間で清掃を終えるのだ。
来客の多い時間帯に清掃する人間の姿を見せないようにするという、会社の規則が徹底していた。
「一旦上がろう」
班長の声が作業する部員の手を止めた。
幸彦の足は毎日ぱんぱんに膨れ、配属後数日は足の裏の痛みで寝られなかったほどだった。
休憩となる10分間は、幸彦にとって本当に天国のような時間だ。
幸彦は自販機で缶コーヒーを買い、休憩室のドアを開け滑り込むように椅子に腰掛けた。
プルを開ければ安っぽい香りが鼻をついたが、喉の奥までからからだったので何とも言えない甘みが彼の疲れた身体を潤した。
「市原、お客だぞ」
休憩室のドアが開き、班長が左の小指を立てながらにやりと笑った。
幸彦はふっと息を吐いて、ドアの外に出た。
貴島沙織がにっこりと微笑んで立っていた。
「ハイ、これ。お弁当」
「いつも悪いね」
清掃業務はだいたい午前中に終わることが多いため、幸彦は毎週月・水・金は沙織の作る弁当を家に持ち帰って食べるようになっていた。
「最近は雨ばかりで掃除も大変でしょ」
弁当を手渡し、沙織が心配そうな表情を浮かべながら幸彦をじっと見つめた。
幸彦はそんな沙織の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「もうすっかり慣れたから」
「なんかさ、あの事件は絶対に幸彦くん嵌められたと思う」
「解ってるよ。でも今となってはなぁ」
「ちょっと気になる噂があるんだけど」
沙織はわざともったいつけた言い方をしてみせた。
「何だよ、下らない話題に付き合う時間はないぜ俺」
「インディゴの地鎮祭の前日さ」
沙織はじっと幸彦の顔を見つめた。
「国崎部長が幸彦くんの営業車のカギを持ってたらしいよ。カギを総務に返すのを見た人がいるのよ」
「なぜ、俺の車のカギだと解る?」
「総務の恵理子に話したもん、私が幸彦くんの営業車用のキーホルダーをプレゼントしたこと」
「まさか、国崎部長が・・・」
「確証はないんだけど・・・あ、そろそろ私行くね。常務がそろそろ出社するから」
「ああ」
「また夜にメールするね」
沙織は立ち上がり、手を振りながらエレベーターの方へと向かっていくのを幸彦は目で見送った。
最近吸い始めたタバコに火を点けながら、幸彦は前日のことを思い出していた。
インディゴの地鎮祭の準備をと思い、会社で良く使っている酒屋で日本酒を買ったこと。
薄口しょうゆを覆っていた包み紙はあの酒屋のものだった。
綺麗に柄まで拭いた鍬も一度二度振ってチェックしたこと。
始業を迎えるベルが鳴り響く。
幸彦は立ち上がり、業務に戻ることにした。
会社帰りにいつもの酒屋に寄ってみようと思った。
その日幸彦は昼過ぎにアパートに帰り着き、自分の部屋で珍しく酔いつぶれた。
「がんばれ、応援してるぞ」とにこやかに微笑んでくれた国崎の笑顔が浮かんでは消えた。
続く
もう3日も雨が降り続いている。
現場もなかなか進まず、工期が延びて大変だろう。
幸彦はそんな思いが頭を一瞬よぎったが、無表情のまま再びモップで床を拭きはじめた。
「窓が開けらんないから乾拭きも頼むよ」
少し先で同僚が幸彦の方を見て叫ぶように言った。
叫ぶような、という表現が本当に正しいほど上杉建設工業の本社1階フロアの広さを窺わせる。
5メートル以上の高さの天井が彼の声を良く響かせる。
まだ早朝ということもあり、会社には庶務部清掃課の人間以外は誰も出社していなかった。
庶務部清掃課の基本的な業務のひとつがこの早朝清掃だった。
夜中の4時出社、5時から2時間かけて本社ビル内をくまなく掃除する。
7時からは各フロアのトイレ掃除。
トイレ掃除については営業部のあるフロアのトイレを一番先に掃除することが決まりとなっていた。
そして出社の遅い工務部や総務部のフロアへ降りながら短時間で清掃を終えるのだ。
来客の多い時間帯に清掃する人間の姿を見せないようにするという、会社の規則が徹底していた。
「一旦上がろう」
班長の声が作業する部員の手を止めた。
幸彦の足は毎日ぱんぱんに膨れ、配属後数日は足の裏の痛みで寝られなかったほどだった。
休憩となる10分間は、幸彦にとって本当に天国のような時間だ。
幸彦は自販機で缶コーヒーを買い、休憩室のドアを開け滑り込むように椅子に腰掛けた。
プルを開ければ安っぽい香りが鼻をついたが、喉の奥までからからだったので何とも言えない甘みが彼の疲れた身体を潤した。
「市原、お客だぞ」
休憩室のドアが開き、班長が左の小指を立てながらにやりと笑った。
幸彦はふっと息を吐いて、ドアの外に出た。
貴島沙織がにっこりと微笑んで立っていた。
「ハイ、これ。お弁当」
「いつも悪いね」
清掃業務はだいたい午前中に終わることが多いため、幸彦は毎週月・水・金は沙織の作る弁当を家に持ち帰って食べるようになっていた。
「最近は雨ばかりで掃除も大変でしょ」
弁当を手渡し、沙織が心配そうな表情を浮かべながら幸彦をじっと見つめた。
幸彦はそんな沙織の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「もうすっかり慣れたから」
「なんかさ、あの事件は絶対に幸彦くん嵌められたと思う」
「解ってるよ。でも今となってはなぁ」
「ちょっと気になる噂があるんだけど」
沙織はわざともったいつけた言い方をしてみせた。
「何だよ、下らない話題に付き合う時間はないぜ俺」
「インディゴの地鎮祭の前日さ」
沙織はじっと幸彦の顔を見つめた。
「国崎部長が幸彦くんの営業車のカギを持ってたらしいよ。カギを総務に返すのを見た人がいるのよ」
「なぜ、俺の車のカギだと解る?」
「総務の恵理子に話したもん、私が幸彦くんの営業車用のキーホルダーをプレゼントしたこと」
「まさか、国崎部長が・・・」
「確証はないんだけど・・・あ、そろそろ私行くね。常務がそろそろ出社するから」
「ああ」
「また夜にメールするね」
沙織は立ち上がり、手を振りながらエレベーターの方へと向かっていくのを幸彦は目で見送った。
最近吸い始めたタバコに火を点けながら、幸彦は前日のことを思い出していた。
インディゴの地鎮祭の準備をと思い、会社で良く使っている酒屋で日本酒を買ったこと。
薄口しょうゆを覆っていた包み紙はあの酒屋のものだった。
綺麗に柄まで拭いた鍬も一度二度振ってチェックしたこと。
始業を迎えるベルが鳴り響く。
幸彦は立ち上がり、業務に戻ることにした。
会社帰りにいつもの酒屋に寄ってみようと思った。
その日幸彦は昼過ぎにアパートに帰り着き、自分の部屋で珍しく酔いつぶれた。
「がんばれ、応援してるぞ」とにこやかに微笑んでくれた国崎の笑顔が浮かんでは消えた。
続く
宿命〜chapter11〜
「おい、聞いたか?インディゴの件」
「薄口しょうゆだってよ!笑うに笑えねぇ」
「インディゴの案件はずっとうちだったろ?それがよそに流れてしまうだろうな」
「仕方ないだろうな・・・」
「市原はどうなるんだろうな」
「うちにはもういられないんじゃないの?」
そういう陰口がこれ見よがしに幸彦の耳をかすめた。
地鎮祭の翌日、幸彦は国崎とともに常務室に呼ばれた。
「失礼します」
二人は常務室に入り、深々と頭を垂れた。
「入りなさい」
上杉雅也は二人を招きいれると、ソファに座らせた。
ソファに腰を下ろしたが、幸彦は視線をテーブルの先から1センチも動かすことが出来なかった。
国崎はそんな幸彦を横目で見て、同じように視線を落とした。
「市原くん、今回のことは一体どういうことなんだ」
「常務、本当に私には訳が解らないんです」
幸彦は呟くようにそう言うと、雅也の顔を上目遣いで見上げた。
「誰かのいたずらとしか・・・」
「そうだとしても、犯人探しをして何になる?」
雅也は口元に手を遣り、険しい表情を浮かべた。
「確かなのは、今後インディゴグループから店舗建築案件はもう貰えないということだ」
雅也の言葉に幸彦は俯いた。
「責任は取ってもらうよ」
「・・・」
幸彦は目を閉じた。
一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
自分は地鎮祭の前日、自ら酒屋で清酒を買い求めた
その領収書もまだ持っている。
鍬だって、刃がそう簡単に外れることはない。
誰がこんなことをしたのだろう。
「聞いているのか?市原くん」
雅也の声に、幸彦ははっと我に返った。
「は、はい」
「来週から庶務部に行ってもらう」
「庶務部?庶務部で私は・・・」
「庶務部清掃課だ。ビル内の清掃をしなさい」
「清掃って・・・常務」
幸彦は思わず立ち上がった。
「これは何かの罠です!」
雅也は表情すら変えることなく、コーヒーを口に運んだ。
「常務、これはいくら何でも厳しすぎです。市原のこれまでの営業成績を知っているでしょう」
国崎が助け舟を出したが、取り付くしまはなかった。
「その営業成績も、今回のことで全部吹っ飛んだんだ」
常務室を出ると、お盆を胸元で抱える貴島沙織が立っていた。
泪を浮かべ、何か言いたそうにしていた。
幸彦は首を振り、沙織が告げようとしている言葉を遮った。
終わり
次のchapterもお楽しみに^^
いよいよ大詰めです〜w
「薄口しょうゆだってよ!笑うに笑えねぇ」
「インディゴの案件はずっとうちだったろ?それがよそに流れてしまうだろうな」
「仕方ないだろうな・・・」
「市原はどうなるんだろうな」
「うちにはもういられないんじゃないの?」
そういう陰口がこれ見よがしに幸彦の耳をかすめた。
地鎮祭の翌日、幸彦は国崎とともに常務室に呼ばれた。
「失礼します」
二人は常務室に入り、深々と頭を垂れた。
「入りなさい」
上杉雅也は二人を招きいれると、ソファに座らせた。
ソファに腰を下ろしたが、幸彦は視線をテーブルの先から1センチも動かすことが出来なかった。
国崎はそんな幸彦を横目で見て、同じように視線を落とした。
「市原くん、今回のことは一体どういうことなんだ」
「常務、本当に私には訳が解らないんです」
幸彦は呟くようにそう言うと、雅也の顔を上目遣いで見上げた。
「誰かのいたずらとしか・・・」
「そうだとしても、犯人探しをして何になる?」
雅也は口元に手を遣り、険しい表情を浮かべた。
「確かなのは、今後インディゴグループから店舗建築案件はもう貰えないということだ」
雅也の言葉に幸彦は俯いた。
「責任は取ってもらうよ」
「・・・」
幸彦は目を閉じた。
一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
自分は地鎮祭の前日、自ら酒屋で清酒を買い求めた
その領収書もまだ持っている。
鍬だって、刃がそう簡単に外れることはない。
誰がこんなことをしたのだろう。
「聞いているのか?市原くん」
雅也の声に、幸彦ははっと我に返った。
「は、はい」
「来週から庶務部に行ってもらう」
「庶務部?庶務部で私は・・・」
「庶務部清掃課だ。ビル内の清掃をしなさい」
「清掃って・・・常務」
幸彦は思わず立ち上がった。
「これは何かの罠です!」
雅也は表情すら変えることなく、コーヒーを口に運んだ。
「常務、これはいくら何でも厳しすぎです。市原のこれまでの営業成績を知っているでしょう」
国崎が助け舟を出したが、取り付くしまはなかった。
「その営業成績も、今回のことで全部吹っ飛んだんだ」
常務室を出ると、お盆を胸元で抱える貴島沙織が立っていた。
泪を浮かべ、何か言いたそうにしていた。
幸彦は首を振り、沙織が告げようとしている言葉を遮った。
終わり
次のchapterもお楽しみに^^
いよいよ大詰めです〜w
宿命〜chapter10〜
季節が露を含んだ季節へと変わろうとしていた。
毎日があっという間だった。
得意先の接待にもすっかり慣れて、少々のお酒ではなかなか酔うようなこともなく幸彦は毎日の業務を積極的にこなしていた。
国崎と幸彦は「第一営業部のツートップ」と呼ばれるようになり、社内の女子社員からたまに食事等に誘われることもあったが、貴島沙織と付き合っていることは既に社内中に知れ渡っていたのでそのような誘いもすげなく断っていた。もっとも、沙織以外の女と浮気するようなことはない。
「市原、お疲れぇ」
「またねぇ」
外はすっかり暗くなっている。幸彦は小さくため息をつき、提案用のビルの青焼をバッグにしまった。
「市原さん、帰ろう」
背後の声に振り向くと、貴島沙織が身支度をすっかり整えて待っていた。
「ああ、今日はビールでも軽く飲んでいこうか」
「いいねぇ」
沙織が腕組みをしながらにっこりと微笑む。
二人は連れ立ってエントランスを出て、何気なく幸彦はビルを見上げた。
「あれ」
「どうしたの」
11階のフロア辺りの窓から小さく光が漏れている。
「あそこ」
幸彦が灯の方向を指差すと、沙織も同じ方向を見つめた。
「あそこ、常務の部屋だわ」
「常務、今日いたのか」
「そう言えば、夕方国崎部長が呼ばれてたよ」
「え、するともう2時間以上になるの?部長と」
「え、ええ」
「何の打ち合わせだろう」
幸彦が訊くと、沙織は肩をすくめた。
「いくら秘書でも、内容まで知るわけないじゃない」
「そうだな」
二人は腕を絡めて夜の街へ向かっていった。
その頃、国崎は汗を拭きながら常務室で俯いていた。
「出来ないっていうのか」
常務の上杉雅也はガラステーブルに足を投げ出したまま、吐き捨てるように呟いた。
「いくらなんでも、それは・・・」
「国崎さん、お願いしますよ」
雅也は口元を歪ませながら下を向いている国崎ににじり寄った。
「市原、いえ直属の私の責任にもなりますし・・・」
国崎の語尾は消え入りそうに小さくなっていた。
「貴方の責任は問いませんよ、国崎さん。長年、役員として頑張ってくれていた貴方に私が責任を押し付けるようなことをすると思っていらっしゃるんですか」
雅也はくすりと笑った。
「しかし、なぜですか。あれだけ頑張っている社員にこのような・・・」
「貴方には関係ないですよ。この件も無論、他言無用です」
ぴしゃりと雅也が言うと、国崎の大きな身体は縮こまった。
それから数日後、幸彦は自分の担当する飲食チェーンの新築ビルの現場に直行していた。
飲食チェーン「インディゴ」は県内に20店舗以上を展開するイタリアンレストランで、飛ぶ鳥を落とす勢いで急速に店舗網を拡げていた。もともとは国崎の担当だったが、担当を幸彦が引き継ぐようになった。
開発部長の小田切ともすっかり親しくなり10階建ての飲食ビルの提案を幸彦が行うと、すぐに話に乗ってくれた。そして、3ヵ月後に着工を迎えたのである。
「市原さん」
すっかり禿げ上がった頭を掻きながら小田切が微笑みながら幸彦に近づいてきた。
「部長、おはようございます。地鎮祭には持って来いの日和ですね」
空を見上げれば、太陽がこれでもかと言わんばかりに暑い光を注いでいる。二人は顔を見合わせて苦笑いした。
「今日の地鎮祭、社長も来るんだよ」
「そうなんですか」
「うん、ほら」
小田切が視線を向けたその先には若き社長らしい人物が来賓客と談笑している。
「あ、そろそろ時間ですよ」
二人はテントの張ってある現場に小走りで向かった。
なにやら難しい文句を神主が長い間呟いている。
現場には100人以上の関係者が参加して地鎮祭を見守っていた。
社長の坂口新太郎は、小さく咳払いして鍬を受け取った。
テントの脇で幸彦はその模様を見守っていた。
すると、信じられない出来事が起こった。
坂口の手にしていた鍬の刃先が外れ、足元の柔らかい盛り土にどすん、と刺さった。
坂口は一瞬目を見開いて、盛り土に刺さった刃先を見つめた。
そして、テントの脇の幸彦をじろりと睨み付けた。
「どういうことだ」
坂口は大声で幸彦を怒鳴りつけた。
「社長、す、すみません」
幸彦は坂口の元に駆け寄ると、鍬の刃先を柄にはめ直した。
背後の来賓客は口元に手を遣り、笑いを堪えているのに必死だった。
わなわなと身体を震わせている坂口ですら、そんな背後の雰囲気に気が付いていた。
「鍬の刃が外れるとは、実に縁起が悪い。貴様・・・」
「申し訳ありません」
幸彦は水飲み鳥のように身体を折り曲げた。
小田切は二人の間でただただ、おろおろするだけだった。
「続けようよ、市原さん」
小田切が耳打ちした。
「は、はい」
「早くお神酒を」
幸彦は手に持っていたビンを覆っている和紙を外した。
その時、またもや信じられない出来事が起こった。
和紙の下から顔を覗かせた褐色のビンに貼られているラベルには「薄口しょうゆ」と書いてあった。
唖然としたのは幸彦だけではなく、その場にいた来賓客全員が一瞬凝固した。
そして、一同の大爆笑が地鎮祭のテントの下で響き渡った。
幸彦は何が起こったのか解らないまま、しょうゆビンを握り締めた。
坂口は鍬を幸彦の足元に放り投げた。
そして、怒りに震えた表情を隠そうともせずに告げた。
「地鎮祭、いや建築は中止だ!ばかやろう」
吐き捨てるようにそう言うと、坂口はその場から足早に立ち去った。小田切は慌てふためきながら、坂口の後を追う。
「社長、これは何かの間違いです!あの・・・」
「もう二度と、上杉建設工業の話はするな!」
坂口は黒塗りのベンツに急いで乗り込んだ。そして後部座席から唾を吐いた。
幸彦は足元に吐かれた唾の傍で立ち尽くした。
毎日があっという間だった。
得意先の接待にもすっかり慣れて、少々のお酒ではなかなか酔うようなこともなく幸彦は毎日の業務を積極的にこなしていた。
国崎と幸彦は「第一営業部のツートップ」と呼ばれるようになり、社内の女子社員からたまに食事等に誘われることもあったが、貴島沙織と付き合っていることは既に社内中に知れ渡っていたのでそのような誘いもすげなく断っていた。もっとも、沙織以外の女と浮気するようなことはない。
「市原、お疲れぇ」
「またねぇ」
外はすっかり暗くなっている。幸彦は小さくため息をつき、提案用のビルの青焼をバッグにしまった。
「市原さん、帰ろう」
背後の声に振り向くと、貴島沙織が身支度をすっかり整えて待っていた。
「ああ、今日はビールでも軽く飲んでいこうか」
「いいねぇ」
沙織が腕組みをしながらにっこりと微笑む。
二人は連れ立ってエントランスを出て、何気なく幸彦はビルを見上げた。
「あれ」
「どうしたの」
11階のフロア辺りの窓から小さく光が漏れている。
「あそこ」
幸彦が灯の方向を指差すと、沙織も同じ方向を見つめた。
「あそこ、常務の部屋だわ」
「常務、今日いたのか」
「そう言えば、夕方国崎部長が呼ばれてたよ」
「え、するともう2時間以上になるの?部長と」
「え、ええ」
「何の打ち合わせだろう」
幸彦が訊くと、沙織は肩をすくめた。
「いくら秘書でも、内容まで知るわけないじゃない」
「そうだな」
二人は腕を絡めて夜の街へ向かっていった。
その頃、国崎は汗を拭きながら常務室で俯いていた。
「出来ないっていうのか」
常務の上杉雅也はガラステーブルに足を投げ出したまま、吐き捨てるように呟いた。
「いくらなんでも、それは・・・」
「国崎さん、お願いしますよ」
雅也は口元を歪ませながら下を向いている国崎ににじり寄った。
「市原、いえ直属の私の責任にもなりますし・・・」
国崎の語尾は消え入りそうに小さくなっていた。
「貴方の責任は問いませんよ、国崎さん。長年、役員として頑張ってくれていた貴方に私が責任を押し付けるようなことをすると思っていらっしゃるんですか」
雅也はくすりと笑った。
「しかし、なぜですか。あれだけ頑張っている社員にこのような・・・」
「貴方には関係ないですよ。この件も無論、他言無用です」
ぴしゃりと雅也が言うと、国崎の大きな身体は縮こまった。
それから数日後、幸彦は自分の担当する飲食チェーンの新築ビルの現場に直行していた。
飲食チェーン「インディゴ」は県内に20店舗以上を展開するイタリアンレストランで、飛ぶ鳥を落とす勢いで急速に店舗網を拡げていた。もともとは国崎の担当だったが、担当を幸彦が引き継ぐようになった。
開発部長の小田切ともすっかり親しくなり10階建ての飲食ビルの提案を幸彦が行うと、すぐに話に乗ってくれた。そして、3ヵ月後に着工を迎えたのである。
「市原さん」
すっかり禿げ上がった頭を掻きながら小田切が微笑みながら幸彦に近づいてきた。
「部長、おはようございます。地鎮祭には持って来いの日和ですね」
空を見上げれば、太陽がこれでもかと言わんばかりに暑い光を注いでいる。二人は顔を見合わせて苦笑いした。
「今日の地鎮祭、社長も来るんだよ」
「そうなんですか」
「うん、ほら」
小田切が視線を向けたその先には若き社長らしい人物が来賓客と談笑している。
「あ、そろそろ時間ですよ」
二人はテントの張ってある現場に小走りで向かった。
なにやら難しい文句を神主が長い間呟いている。
現場には100人以上の関係者が参加して地鎮祭を見守っていた。
社長の坂口新太郎は、小さく咳払いして鍬を受け取った。
テントの脇で幸彦はその模様を見守っていた。
すると、信じられない出来事が起こった。
坂口の手にしていた鍬の刃先が外れ、足元の柔らかい盛り土にどすん、と刺さった。
坂口は一瞬目を見開いて、盛り土に刺さった刃先を見つめた。
そして、テントの脇の幸彦をじろりと睨み付けた。
「どういうことだ」
坂口は大声で幸彦を怒鳴りつけた。
「社長、す、すみません」
幸彦は坂口の元に駆け寄ると、鍬の刃先を柄にはめ直した。
背後の来賓客は口元に手を遣り、笑いを堪えているのに必死だった。
わなわなと身体を震わせている坂口ですら、そんな背後の雰囲気に気が付いていた。
「鍬の刃が外れるとは、実に縁起が悪い。貴様・・・」
「申し訳ありません」
幸彦は水飲み鳥のように身体を折り曲げた。
小田切は二人の間でただただ、おろおろするだけだった。
「続けようよ、市原さん」
小田切が耳打ちした。
「は、はい」
「早くお神酒を」
幸彦は手に持っていたビンを覆っている和紙を外した。
その時、またもや信じられない出来事が起こった。
和紙の下から顔を覗かせた褐色のビンに貼られているラベルには「薄口しょうゆ」と書いてあった。
唖然としたのは幸彦だけではなく、その場にいた来賓客全員が一瞬凝固した。
そして、一同の大爆笑が地鎮祭のテントの下で響き渡った。
幸彦は何が起こったのか解らないまま、しょうゆビンを握り締めた。
坂口は鍬を幸彦の足元に放り投げた。
そして、怒りに震えた表情を隠そうともせずに告げた。
「地鎮祭、いや建築は中止だ!ばかやろう」
吐き捨てるようにそう言うと、坂口はその場から足早に立ち去った。小田切は慌てふためきながら、坂口の後を追う。
「社長、これは何かの間違いです!あの・・・」
「もう二度と、上杉建設工業の話はするな!」
坂口は黒塗りのベンツに急いで乗り込んだ。そして後部座席から唾を吐いた。
幸彦は足元に吐かれた唾の傍で立ち尽くした。
宿命〜chapter9〜
幸彦と国崎はその日も顧客回りをしていた。
厳しい不況下ではあったが、この二人が組んで営業をすれば必ず契約に結びつく。
国崎も幸彦の成長振りに目を見張った。
何せ幸彦は第一営業部でもう何ヶ月も成績は常に上位にあり、幸彦は既に一目置かれる存在となっていたのだから。
国崎は軽く汗ばんでいる自分の額をハンカチで拭った。
「暑いなぁ」
もうすっかり春の陽気になっていた。幸彦も手で首元を扇ぎながら頷いた。
「まだ4月になったばかりなのに、ホント暑いです」
「こんな時はゆっくりと喫茶店で涼みたいよな」
「あ、この近くに僕が良く行っている喫茶店がありますよ」
「よっしゃ、行くか」
二人は足を喫茶店に向けた。すると、幸彦は思わずはっとした。
そう、愛とあの雨の日に初めて話をした喫茶店だったのである。
「どうした?」
訝しげに国崎が振り返っている。「いえ」と幸彦は小さく頷きながら、小走りで国崎に並んで歩いた。
やがて10分も歩かないうちに喫茶店に辿り着き、国崎が喫茶店のドアを開けた。
すると、ちょうど見慣れた細面の顔が目の前に飛び込んできた。
そこには愛がいた。
彼女はちょうど会計をしているところだったらしく、幸彦と目が合うと一瞬びっくりしたようだったが、すぐに表情を作った。
「市原さん、久しぶり」
「あ、ああ」
思わず幸彦も作り笑顔を浮かべようとしたが、余りにも突然の再会だったので表情を作る余裕はなかった。
そんな幸彦の心情を察したかのように愛は軽く会釈した。
「も、もうすぐ結婚式だってね。おめでとう」
「ありがとう」
愛はそう言うと、じっと幸彦の顔を見た。
何かを言いたげな切れ長の瞳は、幸彦にどことなく悲しげに映った。
「あなたは?」
「う、うん。元気にやってる」
「なら良かった。幸せにね」
そう言うと、愛は静かにドアを閉めて喫茶店を出て行った。
二人のやり取りを聞いていた国崎は軽く幸彦の肩を叩いた。
「未練は残すな」
「・・・」
幸彦は小さく頷いた。
貴島沙織は、ショーウインドウにくっつかんばかりに近づけ、その時計を見ていた。
金色に輝く文字盤の斬新なデザイン。
ベルトの部分は濃いこげ茶の牛革。
もうすぐ幸彦の誕生日。
沙織は自分の洋服のローンの引き落としがどれくらいか暗算しながら、そのショップのドアを開けた。
すると、そこには上杉雅也のフィアンセ、江田島愛が陳列棚を見ていた。
幸彦の元彼女で常務の婚約者であるこの女は、どこまでも沙織を不安にした。
二人でいる時、幸彦はどことなく寂しげな表情を浮かべた。それは決まって上杉雅也と江田島愛の結婚に話が及んだ時だった。
沙織は意を決して背後から愛に話しかけた。
「江田島さん」
愛は長い黒髪に手をやって沙織を振り返った。
「はい・・・あなたは?」
「上杉建設工業の者です、常務の秘書をしている貴島沙織と言います」
沙織はぴょこんと頭を下げた。
「そうなんですか、江田島愛です。いつも彼がお世話に・・・」
「市原さんとお付き合いしてます、私」
愛が頭を下げている間に、沙織は早口で告げた。
愛は戸惑いの表情を浮かべ、そして目を伏せた。沙織はやや語気を強めた。
「市原さんのこと、私は本当に大好きです」
「そう」
愛は力なく微笑んだ。
何もかもを悟りきったかのようなその笑顔が、沙織の癪に障った。
「市原さんを振ったんですよね」
「・・・ええ」
「彼はまだ苦しんでいるけど、きっと私が守りますから」
一気に捲くし立て、沙織は踵を返して店を飛び出した。
愛はその場に立ち尽くした。
忘れられるものなら忘れてしまいたい。
いつも幸彦の優しい手が、声が、絡みつくように愛のすぐ傍にいた。
ベッドに入っても、朝起きるその瞬間にも幸彦の笑顔がちらついた。
それと重なるように、兄優二の笑顔が現れては消える。
残像が消え、現実に引き戻される時に愛は死んでしまいたくなりそうになる。
幸彦との別れを決めた日、愛は悲しみよりも空しさがこみ上げる心をどうにも処理出来ないでいた。
彼への手紙を書きながら、零れ落ちる泪が便箋の縁を濡らした。
ごしごしと縁を肘で拭うと、句読点が滲んだ。
もう人を悲しませない。
自分の心を押し殺すことを決めた筈だった。
それでも愛は、幸彦への想いを打ち消すことは出来なかった。
続く
厳しい不況下ではあったが、この二人が組んで営業をすれば必ず契約に結びつく。
国崎も幸彦の成長振りに目を見張った。
何せ幸彦は第一営業部でもう何ヶ月も成績は常に上位にあり、幸彦は既に一目置かれる存在となっていたのだから。
国崎は軽く汗ばんでいる自分の額をハンカチで拭った。
「暑いなぁ」
もうすっかり春の陽気になっていた。幸彦も手で首元を扇ぎながら頷いた。
「まだ4月になったばかりなのに、ホント暑いです」
「こんな時はゆっくりと喫茶店で涼みたいよな」
「あ、この近くに僕が良く行っている喫茶店がありますよ」
「よっしゃ、行くか」
二人は足を喫茶店に向けた。すると、幸彦は思わずはっとした。
そう、愛とあの雨の日に初めて話をした喫茶店だったのである。
「どうした?」
訝しげに国崎が振り返っている。「いえ」と幸彦は小さく頷きながら、小走りで国崎に並んで歩いた。
やがて10分も歩かないうちに喫茶店に辿り着き、国崎が喫茶店のドアを開けた。
すると、ちょうど見慣れた細面の顔が目の前に飛び込んできた。
そこには愛がいた。
彼女はちょうど会計をしているところだったらしく、幸彦と目が合うと一瞬びっくりしたようだったが、すぐに表情を作った。
「市原さん、久しぶり」
「あ、ああ」
思わず幸彦も作り笑顔を浮かべようとしたが、余りにも突然の再会だったので表情を作る余裕はなかった。
そんな幸彦の心情を察したかのように愛は軽く会釈した。
「も、もうすぐ結婚式だってね。おめでとう」
「ありがとう」
愛はそう言うと、じっと幸彦の顔を見た。
何かを言いたげな切れ長の瞳は、幸彦にどことなく悲しげに映った。
「あなたは?」
「う、うん。元気にやってる」
「なら良かった。幸せにね」
そう言うと、愛は静かにドアを閉めて喫茶店を出て行った。
二人のやり取りを聞いていた国崎は軽く幸彦の肩を叩いた。
「未練は残すな」
「・・・」
幸彦は小さく頷いた。
貴島沙織は、ショーウインドウにくっつかんばかりに近づけ、その時計を見ていた。
金色に輝く文字盤の斬新なデザイン。
ベルトの部分は濃いこげ茶の牛革。
もうすぐ幸彦の誕生日。
沙織は自分の洋服のローンの引き落としがどれくらいか暗算しながら、そのショップのドアを開けた。
すると、そこには上杉雅也のフィアンセ、江田島愛が陳列棚を見ていた。
幸彦の元彼女で常務の婚約者であるこの女は、どこまでも沙織を不安にした。
二人でいる時、幸彦はどことなく寂しげな表情を浮かべた。それは決まって上杉雅也と江田島愛の結婚に話が及んだ時だった。
沙織は意を決して背後から愛に話しかけた。
「江田島さん」
愛は長い黒髪に手をやって沙織を振り返った。
「はい・・・あなたは?」
「上杉建設工業の者です、常務の秘書をしている貴島沙織と言います」
沙織はぴょこんと頭を下げた。
「そうなんですか、江田島愛です。いつも彼がお世話に・・・」
「市原さんとお付き合いしてます、私」
愛が頭を下げている間に、沙織は早口で告げた。
愛は戸惑いの表情を浮かべ、そして目を伏せた。沙織はやや語気を強めた。
「市原さんのこと、私は本当に大好きです」
「そう」
愛は力なく微笑んだ。
何もかもを悟りきったかのようなその笑顔が、沙織の癪に障った。
「市原さんを振ったんですよね」
「・・・ええ」
「彼はまだ苦しんでいるけど、きっと私が守りますから」
一気に捲くし立て、沙織は踵を返して店を飛び出した。
愛はその場に立ち尽くした。
忘れられるものなら忘れてしまいたい。
いつも幸彦の優しい手が、声が、絡みつくように愛のすぐ傍にいた。
ベッドに入っても、朝起きるその瞬間にも幸彦の笑顔がちらついた。
それと重なるように、兄優二の笑顔が現れては消える。
残像が消え、現実に引き戻される時に愛は死んでしまいたくなりそうになる。
幸彦との別れを決めた日、愛は悲しみよりも空しさがこみ上げる心をどうにも処理出来ないでいた。
彼への手紙を書きながら、零れ落ちる泪が便箋の縁を濡らした。
ごしごしと縁を肘で拭うと、句読点が滲んだ。
もう人を悲しませない。
自分の心を押し殺すことを決めた筈だった。
それでも愛は、幸彦への想いを打ち消すことは出来なかった。
続く
宿命〜chapter8〜
幸彦が上杉建設工業で働き出してから、早くも8ヶ月が過ぎた。
愛との別れは本当につらい出来事だったが、仕事の忙しさが慰めになっていた。
上司の国崎は仕事に対してはストイックで、幸彦に厳しく指導した。そのかいあって、入社4ヶ月にして初契約を取ることが出来た。人間というものは不思議なもので、幸彦が仕事が出来ると解ると色々親切にしてくれるようになり、職場での人間関係も徐々に出来つつあった。
そんな12月のある日、幸彦がデスク周りを片付けていると職場の同僚が声を掛けてきた。
「市原、今日どうする?飲んでいこうぜ」
幸彦は片手にコートを掴み、髪型を整えながら言った。
「あ、今日は先約あるんで・・・」
「ちぇ、付き合い悪いじゃんか」
同僚は肩をすくめながら立ち去ろうとして、何かを思い出したように幸彦を振り返った。
「ひょっとして彼女とデート?」
「はは、まあそんなところです」
「彼女美人だしなー、いいなぁ、市原はモテて」
「何言ってるんですか、じゃあお先に」
幸彦が第一営業部のドアを閉めると、壁を背にした貴島沙織が幸彦の姿を認めて小さく手を振った。
「お待たせ」
「待ってないよ」
沙織はにっこりと微笑んだ。
二人は連れ立って会社を後にした。
幸彦と貴島沙織が付き合い始めて既に一月が経とうとしていた。
告白してきたのは沙織からで、愛のことを思い続けていた幸彦は少なからず驚いた。
「私、市原さんをいつも見てたから」
そう言って沙織は下を向いた。
顔を赤らめながら、小さく震える沙織に幸彦は思いがけずOKしてしまった。
「今日はどうする?」
「私がご飯作るよ」
「うん」
沙織はそう言うと、幸彦の腕に手を絡めた。
沙織が手際良く野菜を炒める姿を幸彦は頬杖をついて見ていた。
すると、山盛りの野菜炒めを手にした沙織がゆっくりと幸彦の方に近寄ってきた。
「足元気をつけて」
「だいじょうぶ」
「野菜炒め好きだよね」
「あら、あなたの健康を考えてるのよ」
沙織は小皿に野菜炒めを盛り付けながらぷっと頬を膨らませた。
「ハイハイ」
二人はちいさなちゃぶ台で向かい合わせながら野菜炒めと格闘する羽目になった。
「おかげで健康でしょ」
「まあね」
「いいお嫁さんになれるかな・・・」
沙織が聞こえるか聞こえないような声で呟いた。
「そうだね」
幸彦は苦笑した。すると沙織は何かを思い出したように手をパンと叩いた。
「そう言えば、上杉常務の話聞いた?」
「ああ」
「延び延びになっていた結婚式、ようやく決まったらしいわね」
「うん」
6月14日。
上杉雅也と江田島愛の結婚式が正式に決まった。
幸彦は出されたお茶にそっと口をつけた。
沙織はそんな幸彦の顔をじっと見ていた。
「そっか、付き合っていたんだよね」
「昔の話だよ」
「その代わり」
沙織はそう言うと、幸彦の方ににじり寄ってきた。
「私があなたを幸せにするから」
そして幸彦をきゅっと抱きしめた。
幸彦は沙織の胸に顔を埋めて目を閉じた。
これでいいんだ。
愛と自分は惹かれあった。
でも、きっと最初からダメだったのだ。
幸彦は沙織を抱きしめた。
続く
愛との別れは本当につらい出来事だったが、仕事の忙しさが慰めになっていた。
上司の国崎は仕事に対してはストイックで、幸彦に厳しく指導した。そのかいあって、入社4ヶ月にして初契約を取ることが出来た。人間というものは不思議なもので、幸彦が仕事が出来ると解ると色々親切にしてくれるようになり、職場での人間関係も徐々に出来つつあった。
そんな12月のある日、幸彦がデスク周りを片付けていると職場の同僚が声を掛けてきた。
「市原、今日どうする?飲んでいこうぜ」
幸彦は片手にコートを掴み、髪型を整えながら言った。
「あ、今日は先約あるんで・・・」
「ちぇ、付き合い悪いじゃんか」
同僚は肩をすくめながら立ち去ろうとして、何かを思い出したように幸彦を振り返った。
「ひょっとして彼女とデート?」
「はは、まあそんなところです」
「彼女美人だしなー、いいなぁ、市原はモテて」
「何言ってるんですか、じゃあお先に」
幸彦が第一営業部のドアを閉めると、壁を背にした貴島沙織が幸彦の姿を認めて小さく手を振った。
「お待たせ」
「待ってないよ」
沙織はにっこりと微笑んだ。
二人は連れ立って会社を後にした。
幸彦と貴島沙織が付き合い始めて既に一月が経とうとしていた。
告白してきたのは沙織からで、愛のことを思い続けていた幸彦は少なからず驚いた。
「私、市原さんをいつも見てたから」
そう言って沙織は下を向いた。
顔を赤らめながら、小さく震える沙織に幸彦は思いがけずOKしてしまった。
「今日はどうする?」
「私がご飯作るよ」
「うん」
沙織はそう言うと、幸彦の腕に手を絡めた。
沙織が手際良く野菜を炒める姿を幸彦は頬杖をついて見ていた。
すると、山盛りの野菜炒めを手にした沙織がゆっくりと幸彦の方に近寄ってきた。
「足元気をつけて」
「だいじょうぶ」
「野菜炒め好きだよね」
「あら、あなたの健康を考えてるのよ」
沙織は小皿に野菜炒めを盛り付けながらぷっと頬を膨らませた。
「ハイハイ」
二人はちいさなちゃぶ台で向かい合わせながら野菜炒めと格闘する羽目になった。
「おかげで健康でしょ」
「まあね」
「いいお嫁さんになれるかな・・・」
沙織が聞こえるか聞こえないような声で呟いた。
「そうだね」
幸彦は苦笑した。すると沙織は何かを思い出したように手をパンと叩いた。
「そう言えば、上杉常務の話聞いた?」
「ああ」
「延び延びになっていた結婚式、ようやく決まったらしいわね」
「うん」
6月14日。
上杉雅也と江田島愛の結婚式が正式に決まった。
幸彦は出されたお茶にそっと口をつけた。
沙織はそんな幸彦の顔をじっと見ていた。
「そっか、付き合っていたんだよね」
「昔の話だよ」
「その代わり」
沙織はそう言うと、幸彦の方ににじり寄ってきた。
「私があなたを幸せにするから」
そして幸彦をきゅっと抱きしめた。
幸彦は沙織の胸に顔を埋めて目を閉じた。
これでいいんだ。
愛と自分は惹かれあった。
でも、きっと最初からダメだったのだ。
幸彦は沙織を抱きしめた。
続く
宿命〜chapter7〜
「おはようございます」
幸彦は初出勤のその日、第一営業部の引き戸を開けて大きい声で挨拶をした。
営業部は全体で4つの部署があり、第一営業部の社員は50名程度で構成されており、上杉建設工業の中では花形的な部署だ。
まだ9時前だというのに、ほぼ全員が出社している。幸彦の挨拶にも部内は電話を掛け捲る社員で騒然としており、挨拶返しもない。幸彦はその雰囲気に圧倒されてしまい、入り口で立ち尽くした。
すると、背後に気配を感じて幸彦は思わず仰け反った。
「ん」
体躯のがっしりした初老の男性が幸彦を横目で一瞥した後、改めて幸彦を見つめた。
「君が市原くんか」
「は、はい」
幸彦は慌てて姿勢を直し、頭を下げた。
するとその男性が部内によく通る声で一喝した。
「新人が来ているのに挨拶ぐらいせんのか、馬鹿者!」
その声に部内のざわめきが一瞬でしん、と静まり返った。そして部内の職員が一斉に立ち上がり、こちらを振り返って「おはようございます」と不ぞろいの挨拶をした。
「お、おはようございます。市原幸彦と言います、今日からこちらでお世話になります」
幸彦がまごつきながら挨拶すると、背後の初老の男性がにっこりと微笑んで幸彦の肩をぽんと軽く叩いた。
「私はここの責任者をしている、国崎だ。よろしくな、市原くん」
「はい」
国崎が室内に入ったので幸彦は国崎のあとを慌てて付いていった。
「ここが君のデスクだ。文具などは秘書の貴島くんが全て用意しているはずだ」
国崎の目の前のデスクを手で示され、幸彦は改めて緊張した。
正午を示す社歌が社内に流れると、第一営業部では溜息と嬌声が響く。
幸彦は会社に提出する書類の処理をするだけで午前中を終えた。幸彦が書類をチェックしていると、いつの間に国崎が背後に立っていた。
「市原、メシでもどうだ」
「は、はい」
国崎康夫は第一営業部の部長であり、上杉建設工業の役員も兼務していた。
がっしりとした体躯が自慢で、頭も切れる。
上杉雅也の部下ではあるが、社内でもその辣腕振りは良く知られていた。
国崎は会社から歩いて5分ほどの中華料理屋を指差した。
「あそこの坦々麺、うまいんだ」
「そうですか」
のれんをくぐり、国崎はてんてこ舞いしている店主に「よっ」と手を上げてカウンターに座る国崎の横に幸彦も腰を下ろした。「坦々麺二つ」と国崎が言うと、店主は無言で頷きながら手を忙しげに動かし始めた。
国崎は運ばれてきたお冷を一気に飲み干しながら幸彦をじっと睨み付けた。
「お前、常務から引き抜かれたって?」
「え、いえ・・・僕も何が何だか・・・」
「そうか。同級生なんだろ、常務とは」
「はい」
「常務から色々聞いている。お前の教育をよろしくとな」
「はい」
「明日から1日20件は回れ。もちろん、俺と一緒だ」
「は、はい」
幸彦は背筋を伸ばした。すると、国崎はにっこり微笑み幸彦の頭をわしゃわしゃと撫でた。
それから一ヶ月は国崎と二人で既存顧客への挨拶回りで足を棒にした。
入社から2ヶ月。
幸彦はその日、疲れ果てふらふらと自分のアパートにたどり着くと、ゆっくりと鍵穴にキーを挿した。
すると、小さな新聞受けに封筒が挟み込んであるのに気づいた。
その封筒を幸彦は郵便受けから引き抜き、封を切った。
幸彦くんへ
私、あなたとはもう会わないことを決めました。
訳は聞かないでください。
あなたのことは一生忘れません。
さよなら 愛
幸彦はその手紙を広げたまま、空を仰いだ。
春の空は今にも泣き出そうとしていた。
続く
幸彦は初出勤のその日、第一営業部の引き戸を開けて大きい声で挨拶をした。
営業部は全体で4つの部署があり、第一営業部の社員は50名程度で構成されており、上杉建設工業の中では花形的な部署だ。
まだ9時前だというのに、ほぼ全員が出社している。幸彦の挨拶にも部内は電話を掛け捲る社員で騒然としており、挨拶返しもない。幸彦はその雰囲気に圧倒されてしまい、入り口で立ち尽くした。
すると、背後に気配を感じて幸彦は思わず仰け反った。
「ん」
体躯のがっしりした初老の男性が幸彦を横目で一瞥した後、改めて幸彦を見つめた。
「君が市原くんか」
「は、はい」
幸彦は慌てて姿勢を直し、頭を下げた。
するとその男性が部内によく通る声で一喝した。
「新人が来ているのに挨拶ぐらいせんのか、馬鹿者!」
その声に部内のざわめきが一瞬でしん、と静まり返った。そして部内の職員が一斉に立ち上がり、こちらを振り返って「おはようございます」と不ぞろいの挨拶をした。
「お、おはようございます。市原幸彦と言います、今日からこちらでお世話になります」
幸彦がまごつきながら挨拶すると、背後の初老の男性がにっこりと微笑んで幸彦の肩をぽんと軽く叩いた。
「私はここの責任者をしている、国崎だ。よろしくな、市原くん」
「はい」
国崎が室内に入ったので幸彦は国崎のあとを慌てて付いていった。
「ここが君のデスクだ。文具などは秘書の貴島くんが全て用意しているはずだ」
国崎の目の前のデスクを手で示され、幸彦は改めて緊張した。
正午を示す社歌が社内に流れると、第一営業部では溜息と嬌声が響く。
幸彦は会社に提出する書類の処理をするだけで午前中を終えた。幸彦が書類をチェックしていると、いつの間に国崎が背後に立っていた。
「市原、メシでもどうだ」
「は、はい」
国崎康夫は第一営業部の部長であり、上杉建設工業の役員も兼務していた。
がっしりとした体躯が自慢で、頭も切れる。
上杉雅也の部下ではあるが、社内でもその辣腕振りは良く知られていた。
国崎は会社から歩いて5分ほどの中華料理屋を指差した。
「あそこの坦々麺、うまいんだ」
「そうですか」
のれんをくぐり、国崎はてんてこ舞いしている店主に「よっ」と手を上げてカウンターに座る国崎の横に幸彦も腰を下ろした。「坦々麺二つ」と国崎が言うと、店主は無言で頷きながら手を忙しげに動かし始めた。
国崎は運ばれてきたお冷を一気に飲み干しながら幸彦をじっと睨み付けた。
「お前、常務から引き抜かれたって?」
「え、いえ・・・僕も何が何だか・・・」
「そうか。同級生なんだろ、常務とは」
「はい」
「常務から色々聞いている。お前の教育をよろしくとな」
「はい」
「明日から1日20件は回れ。もちろん、俺と一緒だ」
「は、はい」
幸彦は背筋を伸ばした。すると、国崎はにっこり微笑み幸彦の頭をわしゃわしゃと撫でた。
それから一ヶ月は国崎と二人で既存顧客への挨拶回りで足を棒にした。
入社から2ヶ月。
幸彦はその日、疲れ果てふらふらと自分のアパートにたどり着くと、ゆっくりと鍵穴にキーを挿した。
すると、小さな新聞受けに封筒が挟み込んであるのに気づいた。
その封筒を幸彦は郵便受けから引き抜き、封を切った。
幸彦くんへ
私、あなたとはもう会わないことを決めました。
訳は聞かないでください。
あなたのことは一生忘れません。
さよなら 愛
幸彦はその手紙を広げたまま、空を仰いだ。
春の空は今にも泣き出そうとしていた。
続く
宿命〜chapter6〜
幸彦が「第一営業部」と書かれたクリーム色のドアを開けると、そこには静かな空間が広がっていた。
建設会社の営業というと電話を掛け捲っている営業マンの姿が多数いる空間を想像していたが、女性事務員以外の姿はなく、整然としたデスクが限りなく連なっていた。
「あ、あの・・・」
おずおずと幸彦は女性従業員に声を掛けた。薄緑色のブラウスに身を包んだ事務員はちらっと幸彦を見上げた。
「何か御用でしょうか」
冷たい表情のまま、抑揚のない口調で事務員が尋ねて来た。幸彦はネクタイが緩んでいないか確認しながら訊いた。
「あの、今日からこちらでお世話になる市原と申しますけど、常務の上杉さんは・・・」
「はい、承っています。どうぞこちらに」
事務員は背筋を伸ばしながら立ち上がった。
第一営業部の奥に「常務室」と書かれたドアがあり、幸彦はひとつ小さな咳払いをしてノックした。
「どうぞ」
ドアを開けると、木製の豪華な机に座ったままの上杉雅也がにっこりと微笑んでいた。
「あ、あの・・・い、市原です」
「おう、待ってたぜ」
雅也は立ち上がり、幸彦に歩み寄った。
「良く来てくれたね」
そう言うと雅也はポンと幸彦の肩を叩き、「まぁ、座ってよ」と皮製のソファに座るよう促した。
「無理言ってごめんな、急な話でさ」
雅也が運ばれてきた紅茶に口をつけたので、幸彦も慌てて紅茶をすすった。
「う、うん」
「営業が一人辞めてさ、困っていたんだ」
「でも、どうして一体俺なんだ?上杉」
雅也は嫌味のない笑顔を浮かべている。
「いやゼミんときさ、お前が建設会社志望だと言っていたのを思い出したんだよ。ただなんとなく」
「そ、そうなんだ」
幸彦はそれでも俯いていた。
きっと、上杉雅也は自分と江田島愛の仲を知らない。知っていたら、きっと恋敵を自分の会社になど入れるようなことはしないはずだ。もし、このことを知ったら雅也はきっと許さないはずだ。
それにしてもおかしい。
幸彦は雅也が頭を掻きながら会社のことを喋っている間中、上の空だった。
まさか、愛と俺が付き合っていることを知ってて自分の会社に俺を入社させたのか。
幸彦の頭の中にはそれしか浮かばず、クエスチョンだけが頭の中を独占していた。
ずっと無表情の幸彦を見つめていた雅也がいきなり口火を切った。
「彼女とのことは俺は知っているよ」
「え」
「政略結婚だからな、無理もない」
「う、上杉。俺は・・・」
雅也が核心を触れてきたので幸彦は思わず持っていた紅茶を持つ手を震わせた。
「いいんだ、俺は愛さんとは結婚しないから」
「す、すまない。上杉」
幸彦が頭を下げたが、雅也は幸彦の肩をそっと押しとどめた。
「もともと好きでもなかったんだ、頭を下げるようなことはするなよ」
「だ、だけど」
「そのうちこっそり婚約解消でもするさ」
雅也はそう言って舌を出して笑った。
「お前と出会って、愛さんは幸せだろうな」
「上杉」
「あ、そうそう」
雅也はそう言うと、書類の束を取り出した。
「これ、給与振込み関係の書類だから来週までに総務に出しておいてくれ」
「う、うん」
幸彦は項垂れた。
「それとほかの社員の手前、社内では常務と呼んでくれないか?それと言葉遣いもな」
「う、うん・・・いえ、はい。解りました、常務」
幸彦が表情を引き締めたので雅也はくすっと笑った。
「じゃあ、今日はもう帰っていいよ。僕の秘書の貴島を紹介するよ」
そう雅也が言い終えるかどうか解らないタイミングで、常務室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します、常務」
「今日からうちの一員となった市原君だ。貴島くん、社内を案内して」
「はい、常務。市原さん、どうぞこちらに」
貴島沙織は切れ長の瞳をほんの少し大きく見開きながら幸彦を促した。
年の頃は二十歳くらいだろうか、胸元の大きく開いたブラウスは彼女のスタイルの良さを際立たせた。
それでいてスレンダーなスタイルが男心を擽る。大部分の男という生き物は、彼女と擦れ違うと振り返ってそのスタイルを確認するに違いなかった。
貴島沙織と幸彦はクリーム色のじゅうたんを並んで歩いた。
「あの」
「上杉・・・いや、常務の秘書をされてもう長いんですか」
「今年入社したばかりなので」
貴島沙織は軽く微笑んだ。
「常務の秘書はとても大変そうですね」
「いえ、夜まで付き合うこともないし楽なほうですよ。プライベートに絡むようなこともないです」
「そ、そうですか」
「何か解らないことがあったり、必要なことがあれば私に言ってください。常務からそう言われています」
「は、はい」
いつの間にか、1階のエントランスに二人は降りて来ていた。
「では、私はこれで」
頭を下げ、エレベーターの方に消えていく貴島沙織を目で見送り、幸彦も押し出されるように外に出た。そして20階くらいの高さはあるだろうビルを見上げた。
何だか、自分にも運が向いてきた!
幸彦は心が弾んでいた。
しばらく連絡は取れていないが、これで愛の母親も自分を認めてくれるに違いない。雅也がこうあっさりと愛を諦めてくれるとは夢にも思わなかった。
そして軽くスキップしながら、駅のほうへと幸彦は歩き出した。
17階の常務室の窓から、上杉雅也は豆粒ほどの大きさの市原幸彦の姿を認めた。
その背中を見送りながら、雅也は両手の指を絡ませた。
そう、まるで拳銃のような形に指を組み合わせた。
そして小さな声で「ばあん」と拳銃を撃つ真似をして、雅也は口元を小さく緩ませた。
続く
建設会社の営業というと電話を掛け捲っている営業マンの姿が多数いる空間を想像していたが、女性事務員以外の姿はなく、整然としたデスクが限りなく連なっていた。
「あ、あの・・・」
おずおずと幸彦は女性従業員に声を掛けた。薄緑色のブラウスに身を包んだ事務員はちらっと幸彦を見上げた。
「何か御用でしょうか」
冷たい表情のまま、抑揚のない口調で事務員が尋ねて来た。幸彦はネクタイが緩んでいないか確認しながら訊いた。
「あの、今日からこちらでお世話になる市原と申しますけど、常務の上杉さんは・・・」
「はい、承っています。どうぞこちらに」
事務員は背筋を伸ばしながら立ち上がった。
第一営業部の奥に「常務室」と書かれたドアがあり、幸彦はひとつ小さな咳払いをしてノックした。
「どうぞ」
ドアを開けると、木製の豪華な机に座ったままの上杉雅也がにっこりと微笑んでいた。
「あ、あの・・・い、市原です」
「おう、待ってたぜ」
雅也は立ち上がり、幸彦に歩み寄った。
「良く来てくれたね」
そう言うと雅也はポンと幸彦の肩を叩き、「まぁ、座ってよ」と皮製のソファに座るよう促した。
「無理言ってごめんな、急な話でさ」
雅也が運ばれてきた紅茶に口をつけたので、幸彦も慌てて紅茶をすすった。
「う、うん」
「営業が一人辞めてさ、困っていたんだ」
「でも、どうして一体俺なんだ?上杉」
雅也は嫌味のない笑顔を浮かべている。
「いやゼミんときさ、お前が建設会社志望だと言っていたのを思い出したんだよ。ただなんとなく」
「そ、そうなんだ」
幸彦はそれでも俯いていた。
きっと、上杉雅也は自分と江田島愛の仲を知らない。知っていたら、きっと恋敵を自分の会社になど入れるようなことはしないはずだ。もし、このことを知ったら雅也はきっと許さないはずだ。
それにしてもおかしい。
幸彦は雅也が頭を掻きながら会社のことを喋っている間中、上の空だった。
まさか、愛と俺が付き合っていることを知ってて自分の会社に俺を入社させたのか。
幸彦の頭の中にはそれしか浮かばず、クエスチョンだけが頭の中を独占していた。
ずっと無表情の幸彦を見つめていた雅也がいきなり口火を切った。
「彼女とのことは俺は知っているよ」
「え」
「政略結婚だからな、無理もない」
「う、上杉。俺は・・・」
雅也が核心を触れてきたので幸彦は思わず持っていた紅茶を持つ手を震わせた。
「いいんだ、俺は愛さんとは結婚しないから」
「す、すまない。上杉」
幸彦が頭を下げたが、雅也は幸彦の肩をそっと押しとどめた。
「もともと好きでもなかったんだ、頭を下げるようなことはするなよ」
「だ、だけど」
「そのうちこっそり婚約解消でもするさ」
雅也はそう言って舌を出して笑った。
「お前と出会って、愛さんは幸せだろうな」
「上杉」
「あ、そうそう」
雅也はそう言うと、書類の束を取り出した。
「これ、給与振込み関係の書類だから来週までに総務に出しておいてくれ」
「う、うん」
幸彦は項垂れた。
「それとほかの社員の手前、社内では常務と呼んでくれないか?それと言葉遣いもな」
「う、うん・・・いえ、はい。解りました、常務」
幸彦が表情を引き締めたので雅也はくすっと笑った。
「じゃあ、今日はもう帰っていいよ。僕の秘書の貴島を紹介するよ」
そう雅也が言い終えるかどうか解らないタイミングで、常務室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します、常務」
「今日からうちの一員となった市原君だ。貴島くん、社内を案内して」
「はい、常務。市原さん、どうぞこちらに」
貴島沙織は切れ長の瞳をほんの少し大きく見開きながら幸彦を促した。
年の頃は二十歳くらいだろうか、胸元の大きく開いたブラウスは彼女のスタイルの良さを際立たせた。
それでいてスレンダーなスタイルが男心を擽る。大部分の男という生き物は、彼女と擦れ違うと振り返ってそのスタイルを確認するに違いなかった。
貴島沙織と幸彦はクリーム色のじゅうたんを並んで歩いた。
「あの」
「上杉・・・いや、常務の秘書をされてもう長いんですか」
「今年入社したばかりなので」
貴島沙織は軽く微笑んだ。
「常務の秘書はとても大変そうですね」
「いえ、夜まで付き合うこともないし楽なほうですよ。プライベートに絡むようなこともないです」
「そ、そうですか」
「何か解らないことがあったり、必要なことがあれば私に言ってください。常務からそう言われています」
「は、はい」
いつの間にか、1階のエントランスに二人は降りて来ていた。
「では、私はこれで」
頭を下げ、エレベーターの方に消えていく貴島沙織を目で見送り、幸彦も押し出されるように外に出た。そして20階くらいの高さはあるだろうビルを見上げた。
何だか、自分にも運が向いてきた!
幸彦は心が弾んでいた。
しばらく連絡は取れていないが、これで愛の母親も自分を認めてくれるに違いない。雅也がこうあっさりと愛を諦めてくれるとは夢にも思わなかった。
そして軽くスキップしながら、駅のほうへと幸彦は歩き出した。
17階の常務室の窓から、上杉雅也は豆粒ほどの大きさの市原幸彦の姿を認めた。
その背中を見送りながら、雅也は両手の指を絡ませた。
そう、まるで拳銃のような形に指を組み合わせた。
そして小さな声で「ばあん」と拳銃を撃つ真似をして、雅也は口元を小さく緩ませた。
続く
宿命〜chapter5〜
幸彦は自分が愛の母親から受け入れられなかった理由を必死に考えていた。
愛と3人で会い、「娘はあげられない」と告げられたその日から、愛とも連絡が取れなくなっていた。
携帯電話の電源は落とされているようだった。
愛のマンションを訪ねたが、郵便受けに新聞が溜まっている状態だった。
実家に戻っているのかもしれなかった。
幸彦はその日、いつものようにネクタイを締め、香ばしいコーヒーの匂いが出来上がりを知らせるのを待った。
愛という女性の存在がとてつもなく大きくなっていた。
どうしようもなく、幸彦は愛に会いたかった。
満員の電車の中でも、デスクに座っても愛の笑顔がちらついた。
一体、どうしたというのだろう。
仕事が手につかないまま、終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
同僚たちは一様にほっとした表情を浮かべ、口々に今夜の予定を話し始めた。
「市原、ちょっといいか」
背後から声を掛けられ幸彦がぎょっとして振り返ると、部長が表情を強張らせて立っていた。
「ちょっと来てくれ、社長がお呼びだ」
彼に促され、二人は連れ立って社長室まで赴いた。
「社長、入ります」
軽くノックをしながら、二人は社長室に入った。
「おお、市原くん」
社長がにっこりと微笑みながら二人を手招きした。
「実はありがたい話があってね、まぁ座りたまえ」
「はあ」
幸彦は皮色がところどころ変色したソファに腰掛けた。
「実は、うちの会社を売却することにしたんだ」
社長は揉み手をしながら幸彦の顔を見つめていた。
「その条件として、スポンサーが市原くんの転籍を要求してきたんだよ」
幸彦には全く訳が解らなかった。
「おっしゃっている事が解りません、社長」
「そのスポンサーの常務さんがぜひ君を会社に迎え入れたいと言っているんだ」
「社長、その会社というのは・・・」
「上杉建設工業だよ、市原くん」
「上杉・・・雅也ですか?」
「そうだよ、同級生なんだってね」
幸彦は面食らった。
一体どういうつもりなのだろう。
「君はもともと建設会社志望だったんだろ?いい話じゃないか」
「でも、上杉建設がうちの会社のスポンサーになるのと僕が建設会社に行くことが繋がるのですか」
「さあね、何でも営業が出来る人物を探していたらしいよ。同級生が部下にいると心強いと上杉さんは言っていらしたぞ」
「でも、社長」
並んで座っていた部長が横から口を挟んだ。
「市原は今、営業成績もいいんです。ようやくモノになってきたところです、もう少し時期をずらすわけには・・・」
「来月から来て欲しいと先方は言っておられる」
部長の抗弁はぴしゃりと遮られた。
「来月って・・・あと1週間しかないじゃないですか」
「そうだ」
「一体なぜなんですか」
幸彦が詰め寄ると、社長は困惑の表情を浮かべた。
「そう言われても困る」
「ですが、社長」
「うちもずっと赤字なんだ、今時ありがたい話なんだ。経営者の立場というものも解ってほしい」
1週間後、幸彦は上杉建設工業本社のビルの前で立ち尽くしていた。
続く
愛と3人で会い、「娘はあげられない」と告げられたその日から、愛とも連絡が取れなくなっていた。
携帯電話の電源は落とされているようだった。
愛のマンションを訪ねたが、郵便受けに新聞が溜まっている状態だった。
実家に戻っているのかもしれなかった。
幸彦はその日、いつものようにネクタイを締め、香ばしいコーヒーの匂いが出来上がりを知らせるのを待った。
愛という女性の存在がとてつもなく大きくなっていた。
どうしようもなく、幸彦は愛に会いたかった。
満員の電車の中でも、デスクに座っても愛の笑顔がちらついた。
一体、どうしたというのだろう。
仕事が手につかないまま、終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
同僚たちは一様にほっとした表情を浮かべ、口々に今夜の予定を話し始めた。
「市原、ちょっといいか」
背後から声を掛けられ幸彦がぎょっとして振り返ると、部長が表情を強張らせて立っていた。
「ちょっと来てくれ、社長がお呼びだ」
彼に促され、二人は連れ立って社長室まで赴いた。
「社長、入ります」
軽くノックをしながら、二人は社長室に入った。
「おお、市原くん」
社長がにっこりと微笑みながら二人を手招きした。
「実はありがたい話があってね、まぁ座りたまえ」
「はあ」
幸彦は皮色がところどころ変色したソファに腰掛けた。
「実は、うちの会社を売却することにしたんだ」
社長は揉み手をしながら幸彦の顔を見つめていた。
「その条件として、スポンサーが市原くんの転籍を要求してきたんだよ」
幸彦には全く訳が解らなかった。
「おっしゃっている事が解りません、社長」
「そのスポンサーの常務さんがぜひ君を会社に迎え入れたいと言っているんだ」
「社長、その会社というのは・・・」
「上杉建設工業だよ、市原くん」
「上杉・・・雅也ですか?」
「そうだよ、同級生なんだってね」
幸彦は面食らった。
一体どういうつもりなのだろう。
「君はもともと建設会社志望だったんだろ?いい話じゃないか」
「でも、上杉建設がうちの会社のスポンサーになるのと僕が建設会社に行くことが繋がるのですか」
「さあね、何でも営業が出来る人物を探していたらしいよ。同級生が部下にいると心強いと上杉さんは言っていらしたぞ」
「でも、社長」
並んで座っていた部長が横から口を挟んだ。
「市原は今、営業成績もいいんです。ようやくモノになってきたところです、もう少し時期をずらすわけには・・・」
「来月から来て欲しいと先方は言っておられる」
部長の抗弁はぴしゃりと遮られた。
「来月って・・・あと1週間しかないじゃないですか」
「そうだ」
「一体なぜなんですか」
幸彦が詰め寄ると、社長は困惑の表情を浮かべた。
「そう言われても困る」
「ですが、社長」
「うちもずっと赤字なんだ、今時ありがたい話なんだ。経営者の立場というものも解ってほしい」
1週間後、幸彦は上杉建設工業本社のビルの前で立ち尽くしていた。
続く
宿命〜chapter4〜
愛と母・絹子は、これから対決でもするかのように睨み合っていた。
母の出してくれた紅茶に手もつけることなく、愛は膝の上でぎゅっと手を握り締めていた。
「とにかく」
先に口を開いたのは母だった。
「市原さんとは別れなさい」
静かな口調でありながら、まるで断罪の斧でも振り下ろすようにその言葉は告げられた。
「・・・どうして」
愛は拳を握り締める力をさらに強めた。
愛の身体が怒りで震えているのを母は悲し気な眼差しを湛えながら見つめていた。
「確かに、彼はお金も何にもない人。でも私は彼の優しい、・・・ううん、彼が私にくれたものがとっても大切だったから好きになったの、それに、それに」
「・・・」
「まるでお兄ちゃんのように暖かい光を持っているの、だから、だから」
愛は溢れる泪を拭おうともせず、内に秘めた言葉を精一杯の表現で伝えようとした。
母はそんな愛を見つめていたが、ふと覚悟を決めたように話し出した。
「似ているのね、優二に」
「違うの、お兄ちゃんと、お兄ちゃんと同じ匂いがするの」
「あなたは解るのね」
母はすーっと息を吸い込んだ。
「そう、市原さんはね・・・」
愛の記憶の中で、優しかった兄と幸彦の微笑が重なった。
「優二の弟なのよ、愛ちゃん」
「・・・え?」
二人の笑顔が重なって、愛の頭から霧のように浮かんで消えた。
「市原幸彦さん・・・いえ、幸彦は私の息子なのよ」
「そんな・・・だって、お母さんはお父さんと結婚するときお兄ちゃんしか・・・」
「そう、優二しか連れて行くことが出来なかったの」
愛は自分の毛穴という毛穴から、汗か何か解らないものが噴出してくるのが解った。そして、絹子は母の口から二人の息子をそれぞれ父と母が引き取ることになった経緯を話し始めた。結婚して二人の子供に恵まれたが、前夫の酒による暴力が原因で離婚したこと。二人の親権を絹子は求めたが夫がそれを拒否してしまったこと、そして裁判所が勧めた和解案が、両親それぞれが親権をそれぞれ持つことだった。
「お母さん・・・」
「幸彦と会った時、お母さんは心臓が止まりそうだったの」
「だから・・・なの?」
母は愛の問いに静かに頷いた。そして、大粒の泪をこぼし始めた。
「まさか・・まさか幸彦と愛ちゃんが出会ってしまうなんて・・・」
母は声を上げて泣き出した。愛はそんな母を見つめるしかなかった。
愛、愛
お兄ちゃんはさ、そんな愛が大好きなんだ
愛さん、愛さん
僕も君が大好きだ
二人の言葉が一本の糸のように繋がった瞬間、愛はその場にへなへなと崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「愛ちゃん!」
母の鋭い叫びが、遠ざかる意識の中でリフレインしている。
愛は目の前の景色がどんどん暗くなっていくのを認識しながら、意識を失っていった。
愛は自分の部屋で目を覚ました。
心配そうに愛の顔を覗き込んでいた母がほっとした表情を浮かべている。
「大丈夫?」
「・・・」
愛は表情を失ったままだった。
絹子は愛の顔を見つめながらゆっくりと話し始めた。
「よりによって、幸彦だなんて・・・」
「お母さん」
「なぜなのよ・・・なぜ・・・」
絹子は泣きながら、クッションを叩いた。
「私は・・・いったいどの顔を下げて『母親です』って言うの・・・」
続く
母の出してくれた紅茶に手もつけることなく、愛は膝の上でぎゅっと手を握り締めていた。
「とにかく」
先に口を開いたのは母だった。
「市原さんとは別れなさい」
静かな口調でありながら、まるで断罪の斧でも振り下ろすようにその言葉は告げられた。
「・・・どうして」
愛は拳を握り締める力をさらに強めた。
愛の身体が怒りで震えているのを母は悲し気な眼差しを湛えながら見つめていた。
「確かに、彼はお金も何にもない人。でも私は彼の優しい、・・・ううん、彼が私にくれたものがとっても大切だったから好きになったの、それに、それに」
「・・・」
「まるでお兄ちゃんのように暖かい光を持っているの、だから、だから」
愛は溢れる泪を拭おうともせず、内に秘めた言葉を精一杯の表現で伝えようとした。
母はそんな愛を見つめていたが、ふと覚悟を決めたように話し出した。
「似ているのね、優二に」
「違うの、お兄ちゃんと、お兄ちゃんと同じ匂いがするの」
「あなたは解るのね」
母はすーっと息を吸い込んだ。
「そう、市原さんはね・・・」
愛の記憶の中で、優しかった兄と幸彦の微笑が重なった。
「優二の弟なのよ、愛ちゃん」
「・・・え?」
二人の笑顔が重なって、愛の頭から霧のように浮かんで消えた。
「市原幸彦さん・・・いえ、幸彦は私の息子なのよ」
「そんな・・・だって、お母さんはお父さんと結婚するときお兄ちゃんしか・・・」
「そう、優二しか連れて行くことが出来なかったの」
愛は自分の毛穴という毛穴から、汗か何か解らないものが噴出してくるのが解った。そして、絹子は母の口から二人の息子をそれぞれ父と母が引き取ることになった経緯を話し始めた。結婚して二人の子供に恵まれたが、前夫の酒による暴力が原因で離婚したこと。二人の親権を絹子は求めたが夫がそれを拒否してしまったこと、そして裁判所が勧めた和解案が、両親それぞれが親権をそれぞれ持つことだった。
「お母さん・・・」
「幸彦と会った時、お母さんは心臓が止まりそうだったの」
「だから・・・なの?」
母は愛の問いに静かに頷いた。そして、大粒の泪をこぼし始めた。
「まさか・・まさか幸彦と愛ちゃんが出会ってしまうなんて・・・」
母は声を上げて泣き出した。愛はそんな母を見つめるしかなかった。
愛、愛
お兄ちゃんはさ、そんな愛が大好きなんだ
愛さん、愛さん
僕も君が大好きだ
二人の言葉が一本の糸のように繋がった瞬間、愛はその場にへなへなと崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「愛ちゃん!」
母の鋭い叫びが、遠ざかる意識の中でリフレインしている。
愛は目の前の景色がどんどん暗くなっていくのを認識しながら、意識を失っていった。
愛は自分の部屋で目を覚ました。
心配そうに愛の顔を覗き込んでいた母がほっとした表情を浮かべている。
「大丈夫?」
「・・・」
愛は表情を失ったままだった。
絹子は愛の顔を見つめながらゆっくりと話し始めた。
「よりによって、幸彦だなんて・・・」
「お母さん」
「なぜなのよ・・・なぜ・・・」
絹子は泣きながら、クッションを叩いた。
「私は・・・いったいどの顔を下げて『母親です』って言うの・・・」
続く
宿命〜chapter3〜
愛はその日、生涯で最も勇気のいる決断をしようとしていた。
しかしいざ実家の前に立つと、その決意すら鈍ってしまいそうになる自分がいた。
分厚いドアの横のチャイムを鳴らす。
リンゴーン、と小気味良い音がドアの向こうから聞こえる。すると、間もなくスリッパのぱたぱた、という音が聞こえてドアが開いた。
母が一瞬びっくりした顔で愛を迎える。
「あら、愛ちゃん」
「ただいま、お母さん」
母絹子はにっこり微笑み、愛を中に招き入れた。
「どうしたの?突然。電話でもくれればお父さんにいるように言ったのに」
「ごめんなさい」
電話を入れてしまえば、きっと言い出せなくなる。愛はそんな弱い自分を振り払おうとしていた。
リビングに入り、愛は久しぶりのソファに腰を下ろした。
母はキッチンに立ち、紅茶の準備を始めている。
「何か、大事な話?」
昔から勘のいい母だった。
愛は小さく咳払いした。
「あのね、お母さん」
その一言を発するのに愛は自分の手のひらをぎゅっと握り締めた。
「私、好きな人がいる」
母は紅茶を注ぐ手を止めた。
「え?どういうこと?」
「私ね」
愛は一瞬息を止め、ありったけの勇気を振り絞った。
「上杉さんとは結婚できない」
「・・・」
母が呆然とした顔で愛を見つめる。ただただ、言葉を失っているように見えた。
愛はこれまでのいきさつを最初から最後まで話し始めた。
雅也に愛を感じない自分と、自分に対して愛情のかけらもない雅也との結婚が我慢できないこと。
そんな自分を救ってくれた幸彦のことを想いを込めて話し続けた。
「私、お兄ちゃんのことで全部我慢しようと決めてた」
「・・・」
「でも、彼と会ってからようやく自分が自分らしくなれたの。笑えたの、私」
「・・・」
「彼と一緒に歩いて行こうと決めたの」
「・・・」
「たとえ、この家を勘当されても彼についていく」
「・・・愛ちゃん」
母は目に泪を浮かべていた。
「そう決めたんならそうしなさい」
泪を拭いながら母は努めて笑おうとしていた。
「江田島の家のことなら大丈夫、お父さんのことは私が支えるから」
「お母さん」
「でも大事な娘を任せる人ならお母さんは会っておきたいわ。今度会わせて頂戴」
「うん、もちろん。お母さんに紹介したい」
母と娘はしっかりと手を取り合いながら泪を流した。
市原幸彦は、愛からの電話を受けて慌ててスーツを買い求めた。ブランド物のスーツを買うのは初めてだったのでかなり緊張した。愛の母と会うことになり、少々すそ上げが必要なスラックスの出来上がりを気にした。
数日後、スーツが出来上がった。奇しくも愛の母と会う日だった。
鏡の前に立ち、幸彦は真新しいスーツに袖を通した。
紺のスーツには細めのストライプが入っており、ネクタイは赤にした。
何てったってお金持ちの家だ。少々派手目でも構わない。そのほうがインパクトがあっていい。
鏡の前で幸彦は顎に手をやってみた。
何だ、意外と似合うじゃないか。
ふと時計を見ると、約束の6時まで1時間を切っていた。
幸彦は慌しく靴を履いてその場所に向かった。
愛と母絹子は既にテーブルについて幸彦を待っていた。
母は品の良い、百合を模ったワンピースを纏っている。
愛も母から選んでもらった白いワンピースを着て、今日に臨んでいた。
「どんな人なの?」
母が空席の対面にちらっと目を遣り、隣の愛を見た。
「広告代理店に勤めているの、彼」
「そうなの、名前は?」
「市原さんって言うのよ」
愛の言葉に母は小さく震え、一瞬顔を強張らせたのに愛はその時気づかなかった。
「あ、来た」
「いつも待たせてごめん」
幸彦が頭を掻きながら、小走りで二人の待つテーブルに近づく。
母がゆっくりと顔を上げ、幸彦の顔をじっと見た。
そして、驚愕の表情を浮かべると母は再び下を向いた。
「お母さん、こちらが市原幸彦さん」
愛が顔を赤らめて幸彦を紹介する。
母は心ここにあらず、といった表情で幸彦の顔を見つめる。
幸彦は照れ笑いを浮かべながら席に着いた。
「市原です、愛さんとお付き合いさせていただいています」
たどたどしく幸彦が自己紹介をするのを母は表情もなく見つめている。
「母の、絹子です。いつも娘がお世話になって・・・」
母が強張った表情のまま頭を下げる。愛は訝しげに母を見つめた。
「なんかしんどうそうだね、お母さん。大丈夫?」
「あ、ああ。ちょっと・・・」
その場を取り繕うように母が微笑む。
食事が運ばれ、3人は当たり障りのない会話をしていたが、愛は無表情の母が気になっていた。
「それで」
母が珍しく言葉を発した。
「あなたは娘と結婚したいと思っていらっしゃるの?」
突然、母が核心に触れた。幸彦は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに大真面目な表情になった。
「そうしたいと思っています」
「悪いけど、娘はあげられないわ」
母はそういうと、席を立ち上がった。
「お母さん!」
母の言葉に愛も思わず席を立った。
いつもの母でない、そう気づいて1時間ほどが経過していた。幸彦も唖然とした表情で二人を見上げている。
「どうしてですか」
声を震わせる幸彦を見下ろして母が静かに言葉を発した。
「それは・・・」
「お母さん、ひどいわ」
愛の抗議に母は目もくれず愛の手を取った。
「今日は帰ります」
二人が慌しく去るのを幸彦は目で追うしかなかった。
続く
しかしいざ実家の前に立つと、その決意すら鈍ってしまいそうになる自分がいた。
分厚いドアの横のチャイムを鳴らす。
リンゴーン、と小気味良い音がドアの向こうから聞こえる。すると、間もなくスリッパのぱたぱた、という音が聞こえてドアが開いた。
母が一瞬びっくりした顔で愛を迎える。
「あら、愛ちゃん」
「ただいま、お母さん」
母絹子はにっこり微笑み、愛を中に招き入れた。
「どうしたの?突然。電話でもくれればお父さんにいるように言ったのに」
「ごめんなさい」
電話を入れてしまえば、きっと言い出せなくなる。愛はそんな弱い自分を振り払おうとしていた。
リビングに入り、愛は久しぶりのソファに腰を下ろした。
母はキッチンに立ち、紅茶の準備を始めている。
「何か、大事な話?」
昔から勘のいい母だった。
愛は小さく咳払いした。
「あのね、お母さん」
その一言を発するのに愛は自分の手のひらをぎゅっと握り締めた。
「私、好きな人がいる」
母は紅茶を注ぐ手を止めた。
「え?どういうこと?」
「私ね」
愛は一瞬息を止め、ありったけの勇気を振り絞った。
「上杉さんとは結婚できない」
「・・・」
母が呆然とした顔で愛を見つめる。ただただ、言葉を失っているように見えた。
愛はこれまでのいきさつを最初から最後まで話し始めた。
雅也に愛を感じない自分と、自分に対して愛情のかけらもない雅也との結婚が我慢できないこと。
そんな自分を救ってくれた幸彦のことを想いを込めて話し続けた。
「私、お兄ちゃんのことで全部我慢しようと決めてた」
「・・・」
「でも、彼と会ってからようやく自分が自分らしくなれたの。笑えたの、私」
「・・・」
「彼と一緒に歩いて行こうと決めたの」
「・・・」
「たとえ、この家を勘当されても彼についていく」
「・・・愛ちゃん」
母は目に泪を浮かべていた。
「そう決めたんならそうしなさい」
泪を拭いながら母は努めて笑おうとしていた。
「江田島の家のことなら大丈夫、お父さんのことは私が支えるから」
「お母さん」
「でも大事な娘を任せる人ならお母さんは会っておきたいわ。今度会わせて頂戴」
「うん、もちろん。お母さんに紹介したい」
母と娘はしっかりと手を取り合いながら泪を流した。
市原幸彦は、愛からの電話を受けて慌ててスーツを買い求めた。ブランド物のスーツを買うのは初めてだったのでかなり緊張した。愛の母と会うことになり、少々すそ上げが必要なスラックスの出来上がりを気にした。
数日後、スーツが出来上がった。奇しくも愛の母と会う日だった。
鏡の前に立ち、幸彦は真新しいスーツに袖を通した。
紺のスーツには細めのストライプが入っており、ネクタイは赤にした。
何てったってお金持ちの家だ。少々派手目でも構わない。そのほうがインパクトがあっていい。
鏡の前で幸彦は顎に手をやってみた。
何だ、意外と似合うじゃないか。
ふと時計を見ると、約束の6時まで1時間を切っていた。
幸彦は慌しく靴を履いてその場所に向かった。
愛と母絹子は既にテーブルについて幸彦を待っていた。
母は品の良い、百合を模ったワンピースを纏っている。
愛も母から選んでもらった白いワンピースを着て、今日に臨んでいた。
「どんな人なの?」
母が空席の対面にちらっと目を遣り、隣の愛を見た。
「広告代理店に勤めているの、彼」
「そうなの、名前は?」
「市原さんって言うのよ」
愛の言葉に母は小さく震え、一瞬顔を強張らせたのに愛はその時気づかなかった。
「あ、来た」
「いつも待たせてごめん」
幸彦が頭を掻きながら、小走りで二人の待つテーブルに近づく。
母がゆっくりと顔を上げ、幸彦の顔をじっと見た。
そして、驚愕の表情を浮かべると母は再び下を向いた。
「お母さん、こちらが市原幸彦さん」
愛が顔を赤らめて幸彦を紹介する。
母は心ここにあらず、といった表情で幸彦の顔を見つめる。
幸彦は照れ笑いを浮かべながら席に着いた。
「市原です、愛さんとお付き合いさせていただいています」
たどたどしく幸彦が自己紹介をするのを母は表情もなく見つめている。
「母の、絹子です。いつも娘がお世話になって・・・」
母が強張った表情のまま頭を下げる。愛は訝しげに母を見つめた。
「なんかしんどうそうだね、お母さん。大丈夫?」
「あ、ああ。ちょっと・・・」
その場を取り繕うように母が微笑む。
食事が運ばれ、3人は当たり障りのない会話をしていたが、愛は無表情の母が気になっていた。
「それで」
母が珍しく言葉を発した。
「あなたは娘と結婚したいと思っていらっしゃるの?」
突然、母が核心に触れた。幸彦は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに大真面目な表情になった。
「そうしたいと思っています」
「悪いけど、娘はあげられないわ」
母はそういうと、席を立ち上がった。
「お母さん!」
母の言葉に愛も思わず席を立った。
いつもの母でない、そう気づいて1時間ほどが経過していた。幸彦も唖然とした表情で二人を見上げている。
「どうしてですか」
声を震わせる幸彦を見下ろして母が静かに言葉を発した。
「それは・・・」
「お母さん、ひどいわ」
愛の抗議に母は目もくれず愛の手を取った。
「今日は帰ります」
二人が慌しく去るのを幸彦は目で追うしかなかった。
続く
宿命〜chapter2〜
秋山美奈は、ビル風が吹きすさぶ中で上杉雅也を待っていた。
すっかり指先まで冷えてしまったが、息で暖めながら待った。
「待たせたね」
気づくと、濃紺のコートを纏った雅也が美奈の眼前に立っている。
美奈は雅也の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「やめろ、誰かに見られたらどうするんだ」
突然雅也が声を荒げたので美奈は腕を外し、びっくりして後ずさりした。
「ごめんなさい」
いつも彼は自分のことを受け入れてはくれない。
こんなに愛しているのに。
美奈と雅也が出会ったのは大学卒業後、半年ほど過ぎたあたりだった。
彼の両親とともに美奈が勤める証券会社にやって来たのだ。
すっかりスーツの似合う雅也の姿を認めたが、美奈は最初心惹かれることはなかった。
「久しぶり」
雅也はコートを脱ぎながら受付嬢を勤める美奈にとびっきりの笑顔を浮かべていた。
「うん、元気そうだね」
「秋山と会うとは思わなかった」
「そうね」
美奈は視線を合わせなかった。
すると、雅也は名刺を取り出し、さらさらと何やら書き込んだ。
そして美奈に名刺を渡した。
「俺の携帯だよ、終わったら飯でも食いに行こうや」
「え、でも・・・」
いきなりの誘いに美奈は面食らった。
「彼氏とかと約束あんのか?」
「う、ううん」
ストレートな誘いを受けたのは初めてだった。
「じゃあ、待ってるよ」
その日を境に二人は頻繁に逢瀬を重ねることになった。
少し先を歩く雅也の背中を美奈は追いかけていた。
「ねえ」
「何だよ」
美奈の声に雅也は立ち止まり、面倒くさそうに美奈を振り返った。
「今日はどこ行くの」
「飯はもう食ったからな、ちょっと休憩して帰ろうか」
「私はまだ食べてないよ」
「あ、そう」
雅也は再び前に向き直って再び歩き出した。
こんな人なのだ。
彼の食欲は満たされていた。あとは性欲を満たしてあげるのが私の役目。
美奈は雅也と一緒に食べようと思っていた夕食を諦めた。
シティホテルの一室で、美奈はふっと溜息をついた。
雅也は既に背中を向けて軽いいびきをかいて眠っている。
雅也の首筋をじっと見つめながら、美奈は切ない気持ちと闘っていた。
愛している自分と、自分とのことをちっとも考えてくれない雅也を憎む自分。
もうすぐ婚約者と結婚するであろう雅也は、これからも私を抱くためだけに会うのだろう。
自分が本当に必要な時に、雅也は傍にいてくれない。
「あ、もうこんな時間か」
ベッドサイドの時計に目をやった雅也がおもむろに起き出した。
美奈はその勢いでベッドから落ちそうになった。
「帰るの」
「ああ、明日営業会議だから早いんだ」
雅也はワイシャツのボタンを留めている。
「今夜はずっと一緒にいたいな、私」
「何言ってんだよ」
雅也は吐き捨てるように言った。
一瞬振り返り、軽蔑でもするかのような視線を浮かべる雅也を美奈は見逃さなかった。
「私とは全然一緒にいてくれないのね」
「今一緒だからいいじゃないか」
「違うの」
美奈は自分の瞳が潤んでいるのに気がついた。
「私はあなたにとってどんな存在かなって・・・」
「恋人だよ」
「でも、結婚はしない?」
「当たり前だ、俺には婚約者がいることを承知でお前は俺と付き合ってるんだろ」
雅也の言葉が刃のように美奈に突きつけられた。
それも解っていたはずだった。
「車がもうすぐ迎えに来るから、出るね。支払いは俺が済ませておくから」
雅也はすっかり身支度を整えている。
「じゃ」
雅也がドアノブに手を伸ばした。
美奈は裸のままベッドを飛び出し、ドアの前で雅也を遮った。
「あなたが結婚しようとしている彼女、好きな人がいるのよ」
「そんなことは知っている」
「女の勘だけど、二人はもうそういう関係よ」
美奈の言葉に雅也は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに平静を装った。
「この話、マスコミとか知ったら驚くでしょうね」
そう言い終えるかどうか解らないうち、雅也の平手が自分に向かっているのに気づいた。
鋭い痛みを覚えながら、美奈は頬を押さえた。
「くだらねえ」
雅也はドアを勢い良く閉めて出て行ってしまった。
美奈はそのまま泣き崩れた。
続く
すっかり指先まで冷えてしまったが、息で暖めながら待った。
「待たせたね」
気づくと、濃紺のコートを纏った雅也が美奈の眼前に立っている。
美奈は雅也の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「やめろ、誰かに見られたらどうするんだ」
突然雅也が声を荒げたので美奈は腕を外し、びっくりして後ずさりした。
「ごめんなさい」
いつも彼は自分のことを受け入れてはくれない。
こんなに愛しているのに。
美奈と雅也が出会ったのは大学卒業後、半年ほど過ぎたあたりだった。
彼の両親とともに美奈が勤める証券会社にやって来たのだ。
すっかりスーツの似合う雅也の姿を認めたが、美奈は最初心惹かれることはなかった。
「久しぶり」
雅也はコートを脱ぎながら受付嬢を勤める美奈にとびっきりの笑顔を浮かべていた。
「うん、元気そうだね」
「秋山と会うとは思わなかった」
「そうね」
美奈は視線を合わせなかった。
すると、雅也は名刺を取り出し、さらさらと何やら書き込んだ。
そして美奈に名刺を渡した。
「俺の携帯だよ、終わったら飯でも食いに行こうや」
「え、でも・・・」
いきなりの誘いに美奈は面食らった。
「彼氏とかと約束あんのか?」
「う、ううん」
ストレートな誘いを受けたのは初めてだった。
「じゃあ、待ってるよ」
その日を境に二人は頻繁に逢瀬を重ねることになった。
少し先を歩く雅也の背中を美奈は追いかけていた。
「ねえ」
「何だよ」
美奈の声に雅也は立ち止まり、面倒くさそうに美奈を振り返った。
「今日はどこ行くの」
「飯はもう食ったからな、ちょっと休憩して帰ろうか」
「私はまだ食べてないよ」
「あ、そう」
雅也は再び前に向き直って再び歩き出した。
こんな人なのだ。
彼の食欲は満たされていた。あとは性欲を満たしてあげるのが私の役目。
美奈は雅也と一緒に食べようと思っていた夕食を諦めた。
シティホテルの一室で、美奈はふっと溜息をついた。
雅也は既に背中を向けて軽いいびきをかいて眠っている。
雅也の首筋をじっと見つめながら、美奈は切ない気持ちと闘っていた。
愛している自分と、自分とのことをちっとも考えてくれない雅也を憎む自分。
もうすぐ婚約者と結婚するであろう雅也は、これからも私を抱くためだけに会うのだろう。
自分が本当に必要な時に、雅也は傍にいてくれない。
「あ、もうこんな時間か」
ベッドサイドの時計に目をやった雅也がおもむろに起き出した。
美奈はその勢いでベッドから落ちそうになった。
「帰るの」
「ああ、明日営業会議だから早いんだ」
雅也はワイシャツのボタンを留めている。
「今夜はずっと一緒にいたいな、私」
「何言ってんだよ」
雅也は吐き捨てるように言った。
一瞬振り返り、軽蔑でもするかのような視線を浮かべる雅也を美奈は見逃さなかった。
「私とは全然一緒にいてくれないのね」
「今一緒だからいいじゃないか」
「違うの」
美奈は自分の瞳が潤んでいるのに気がついた。
「私はあなたにとってどんな存在かなって・・・」
「恋人だよ」
「でも、結婚はしない?」
「当たり前だ、俺には婚約者がいることを承知でお前は俺と付き合ってるんだろ」
雅也の言葉が刃のように美奈に突きつけられた。
それも解っていたはずだった。
「車がもうすぐ迎えに来るから、出るね。支払いは俺が済ませておくから」
雅也はすっかり身支度を整えている。
「じゃ」
雅也がドアノブに手を伸ばした。
美奈は裸のままベッドを飛び出し、ドアの前で雅也を遮った。
「あなたが結婚しようとしている彼女、好きな人がいるのよ」
「そんなことは知っている」
「女の勘だけど、二人はもうそういう関係よ」
美奈の言葉に雅也は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに平静を装った。
「この話、マスコミとか知ったら驚くでしょうね」
そう言い終えるかどうか解らないうち、雅也の平手が自分に向かっているのに気づいた。
鋭い痛みを覚えながら、美奈は頬を押さえた。
「くだらねえ」
雅也はドアを勢い良く閉めて出て行ってしまった。
美奈はそのまま泣き崩れた。
続く
宿命〜chapter1〜
愛がこの腕で眠っている。
幸彦はぐっすりと眠り込んでいる愛の寝顔をじっと見つめていた。
「私を離さないで」
激しく愛し合った昨夜、愛は呟くように囁いた。
「あなたの傍にいるから」
そして目を閉じて幸彦を受け入れた。
上杉雅也と結婚しようとしている愛を守りきることができるかどうか、今の自分には解らない。
しかし愛を心から好きな自分の気持ちに抗うことはできない。
全てを捨ててでも、愛だけは守らなければならない。
幸彦の視線に気づいた愛が目を覚ました。
「・・・どうしたの」
「いや、なんでもない」
幸彦は裸身を起こしてTシャツに着替えた。愛はきょろきょろと部屋を見渡すと、幸彦のパジャマの上着を見つけてそれを羽織った。
「・・・後悔してるの?」
幸彦を背後から抱きしめながら愛が訊いた。
すると幸彦はその細い腕に自分の手を置いた。
「後悔なんかしない」
そして振り返って愛を抱きしめた。
「愛してるよ」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら愛が狭いバスルームから出てきた。
幸彦はマグカップにコーヒーを注いで愛に手渡した。
「ありがと」
彼女がにっこりと微笑みカップを受け取ると、ふうふうと息をコーヒーに吹きかけた。
「朝帰りなんてして大丈夫か?」
幸彦が訊くと、愛は上目遣いに彼を見つめる。
「大人だもん、私」
少し拗ねたように愛が言った。
「時々こっちに泊まっちゃおうかな」
「駄目だよ、ちゃんと分別はつけないと」
「あら、意外と真面目なのね」
「意外って、あのねえ」
「そうだね、次に会うのが楽しみになるからそんなことはしないわ」
愛はそう言うと、幸彦にいきなり抱きついた。その勢いで壁に頭を打ち付けてしまった。
「いてぇ」
「いったぁ・・・」
二人は壁際で頭をさすりながらお互いを見た。
そして声を上げて笑いあった。
夕暮れの改札に人という人が集まり始める。
江田島愛は時計を見ながら改札前のコンコースで幸彦を待っていた。
吐く息の白さが夕闇に溶けていくのを愛は見ていた。
もう12月になり、二人で会う回数もかなり増えている。
愛は幸彦を待つ時間が好きだった。
彼が頭を掻きながら走ってくる姿を見ると、とても幸せな気分になる。
そして息を切らしながら言うのだ、「お待たせ」と。
今日も同じように言うのだろう。
愛は口元に手を当てて思い出し笑いを浮かべた。
「あら、江田島さんじゃないの」
愛が顔を上げると、そこには秋山美奈が立っていた。
幸彦の元彼女。
愛は心が僅かに警戒モードを発しているのに気づいた。
「こんにちは」
愛が首をすくめながら頭を下げた。美奈は辺りを見渡した。
「誰かと待ち合わせ?」
「いえ、あの、・・・」
愛は返答に窮した。
自分が婚約しているのをこの人は知っている。
心臓が早鐘を打ち始めた。
すると、遠目に幸彦が人波を掻き分けながらこっちに向かってくるのが見えた。
「どうしたの?」
訝しげに美奈が彼女を覗き込む。
愛は再び下を向いた。
「お待たせ!」
幸彦が息を切らしながら愛の元に駆け寄って来た。
「待った?」
「う、うん」
「市原くんじゃないの」
美奈は目を丸くしていた。
愛は顔を上げず、俯いたままだった。
「秋山?何でここに・・・」
幸彦は美奈の姿を認めると、思わず身構えた。
「もう帰るところよ、あんたこそ何してるのよ」
美奈は腕組みをしながら明らかに責める視線を向けている。
幸彦は頭を掻いた。
「いや、あのさ」
「彼女と逢ってるの、どうして?」
「だからさ・・・」
幸彦は自分がしどろもどろになっているのに気づいた。
二人の様子を見ていた愛は思い切って顔を上げた。
「そういうことなんです」
「愛!」
幸彦が静止しようとしているのを振り切りながら愛は凛とした表情で美奈を見つめた。
「私、市原さんとお付き合いしてます」
「えっ」
美奈は呆けた表情を浮かべて二人の顔を交互に見た。
「上杉くんはこのこと知ってる・・・知るはずないか」
幸彦と愛は下を向いたまま何も言わず黙りこくった。
「お願いします、今日のことは彼には言わないで」
愛が頭を深々と下げる。幸彦もそれにつられるように頭を下げた。
美奈は一瞬困惑の表情を浮かべたが、ふっと微笑んだ。
「解った、秘密ね」
「秋山、すまない」
「今度ご飯奢りなさいよ」
美奈は後ろ手に手を振りながらその場を離れた。
はらはらした表情を浮かべる二人を背中に感じながら美奈は大きく息を吸い込んだ。
そして、口元に手をやると小さく笑った。
「罰なんだわ」
美奈は誰にも聞こえないような小さな声で呟いていた。
続く
幸彦はぐっすりと眠り込んでいる愛の寝顔をじっと見つめていた。
「私を離さないで」
激しく愛し合った昨夜、愛は呟くように囁いた。
「あなたの傍にいるから」
そして目を閉じて幸彦を受け入れた。
上杉雅也と結婚しようとしている愛を守りきることができるかどうか、今の自分には解らない。
しかし愛を心から好きな自分の気持ちに抗うことはできない。
全てを捨ててでも、愛だけは守らなければならない。
幸彦の視線に気づいた愛が目を覚ました。
「・・・どうしたの」
「いや、なんでもない」
幸彦は裸身を起こしてTシャツに着替えた。愛はきょろきょろと部屋を見渡すと、幸彦のパジャマの上着を見つけてそれを羽織った。
「・・・後悔してるの?」
幸彦を背後から抱きしめながら愛が訊いた。
すると幸彦はその細い腕に自分の手を置いた。
「後悔なんかしない」
そして振り返って愛を抱きしめた。
「愛してるよ」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら愛が狭いバスルームから出てきた。
幸彦はマグカップにコーヒーを注いで愛に手渡した。
「ありがと」
彼女がにっこりと微笑みカップを受け取ると、ふうふうと息をコーヒーに吹きかけた。
「朝帰りなんてして大丈夫か?」
幸彦が訊くと、愛は上目遣いに彼を見つめる。
「大人だもん、私」
少し拗ねたように愛が言った。
「時々こっちに泊まっちゃおうかな」
「駄目だよ、ちゃんと分別はつけないと」
「あら、意外と真面目なのね」
「意外って、あのねえ」
「そうだね、次に会うのが楽しみになるからそんなことはしないわ」
愛はそう言うと、幸彦にいきなり抱きついた。その勢いで壁に頭を打ち付けてしまった。
「いてぇ」
「いったぁ・・・」
二人は壁際で頭をさすりながらお互いを見た。
そして声を上げて笑いあった。
夕暮れの改札に人という人が集まり始める。
江田島愛は時計を見ながら改札前のコンコースで幸彦を待っていた。
吐く息の白さが夕闇に溶けていくのを愛は見ていた。
もう12月になり、二人で会う回数もかなり増えている。
愛は幸彦を待つ時間が好きだった。
彼が頭を掻きながら走ってくる姿を見ると、とても幸せな気分になる。
そして息を切らしながら言うのだ、「お待たせ」と。
今日も同じように言うのだろう。
愛は口元に手を当てて思い出し笑いを浮かべた。
「あら、江田島さんじゃないの」
愛が顔を上げると、そこには秋山美奈が立っていた。
幸彦の元彼女。
愛は心が僅かに警戒モードを発しているのに気づいた。
「こんにちは」
愛が首をすくめながら頭を下げた。美奈は辺りを見渡した。
「誰かと待ち合わせ?」
「いえ、あの、・・・」
愛は返答に窮した。
自分が婚約しているのをこの人は知っている。
心臓が早鐘を打ち始めた。
すると、遠目に幸彦が人波を掻き分けながらこっちに向かってくるのが見えた。
「どうしたの?」
訝しげに美奈が彼女を覗き込む。
愛は再び下を向いた。
「お待たせ!」
幸彦が息を切らしながら愛の元に駆け寄って来た。
「待った?」
「う、うん」
「市原くんじゃないの」
美奈は目を丸くしていた。
愛は顔を上げず、俯いたままだった。
「秋山?何でここに・・・」
幸彦は美奈の姿を認めると、思わず身構えた。
「もう帰るところよ、あんたこそ何してるのよ」
美奈は腕組みをしながら明らかに責める視線を向けている。
幸彦は頭を掻いた。
「いや、あのさ」
「彼女と逢ってるの、どうして?」
「だからさ・・・」
幸彦は自分がしどろもどろになっているのに気づいた。
二人の様子を見ていた愛は思い切って顔を上げた。
「そういうことなんです」
「愛!」
幸彦が静止しようとしているのを振り切りながら愛は凛とした表情で美奈を見つめた。
「私、市原さんとお付き合いしてます」
「えっ」
美奈は呆けた表情を浮かべて二人の顔を交互に見た。
「上杉くんはこのこと知ってる・・・知るはずないか」
幸彦と愛は下を向いたまま何も言わず黙りこくった。
「お願いします、今日のことは彼には言わないで」
愛が頭を深々と下げる。幸彦もそれにつられるように頭を下げた。
美奈は一瞬困惑の表情を浮かべたが、ふっと微笑んだ。
「解った、秘密ね」
「秋山、すまない」
「今度ご飯奢りなさいよ」
美奈は後ろ手に手を振りながらその場を離れた。
はらはらした表情を浮かべる二人を背中に感じながら美奈は大きく息を吸い込んだ。
そして、口元に手をやると小さく笑った。
「罰なんだわ」
美奈は誰にも聞こえないような小さな声で呟いていた。
続く
ふたり〜chapter9〜
その日、幸彦は軽い頭痛を覚えながらゆっくりと体を起こした。
昨夜は部長と同行営業で、居酒屋の店主と意気投合してしまった。
2軒目のスナックでは少々飲みすぎた。
最近新しく買ったベッドがまだ体に馴染まない。
前のように畳に布団を直接敷くのが一番体にも良さそうだ。
幸彦はいつものようにコーヒーサーバーにスイッチを入れた。
今日は土曜日。
潮企画は週休二日制ではなかったので、思い切って有給休暇を使ってみた。
最近新規の営業に力を入れ思いのほか調子が良かったので、いつもなら休暇申請を渋る部長も快く申請を承諾してくれた。
コーヒーメーカーから心地よいコポコポというリズムが出来上がりを知らせた。
幸彦は出来立てのコーヒーに口をつけ、ふっとため息をついた。
愛から連絡が来なくなり、もう1ヶ月は経つだろうか。
幸彦のアパートで夕飯を一緒にする約束を一方的に反故にされたが、翌日は会社の前に来てくれていたのに。
あの日、何があったのだろう。
何度も幸彦はメールをしたり、電話もかけたが返信すら来ない。
よっぽど嫌われてしまったのかと思ったが、思い当たるようなこともない。
「ありゃ」
戸棚を開けると、朝食用にストックしているシリアルが全くなくなっている。
ここのところ忙しくしていたため、スーパーにすら行くことが出来なかった。
幸彦はパーカーを羽織り駅前のカフェに出かけることにした。
少しづつ風が冷たくなって来ている。
もうすっかり季節が秋の匂いを感じさせている。
幸彦はまだ人の息遣いの少ない街でうーんと背筋を伸ばした。
早起きもいいもんだな。
まだ8時を少し回ったばかり。
商店街のシャッターはひとつも空いていない。
久しぶりに出向くカフェの前に辿りつくと、幸彦は思わずぎょっとした。
カフェのドアには「諸事情により閉店します」の張り紙がしてある。
無理もない、この不況でこの商店街もすっかり寂れてしまった。
朝食を得る術をなくした幸彦は、さらに先のバーガーショップを目指すことにした。
しばらく歩くと、カフェから1キロほど離れたバーガーショップの看板を認めた。
朝から思いがけない運動になってしまったので、幸彦はすっかり腹を空かせている自分に気がついた。
ようやくたどり着いたショップで愛想笑いを浮かべる店員にモーニングセットを頼み、幸彦はトレーを持ち2階に上がった。
まだ人もまばらな2階の片隅でコーヒーを飲んでいる白い横顔を見つけた。
その横顔が、立ち尽くす幸彦に気づいて狼狽した。
「久しぶり」
愛がぎこちない微笑を浮かべている。
「こんなところで会うなんて珍しいね」
「そうだね」
「ここいいかな?座っても」
愛が頷き、幸彦は隣に腰を下ろした。
「元気そうだね」
何を話していいかわからなかった幸彦は取りあえず当たり障りのない会話をしてみた。
愛はじっと考え込んでいる表情のまま、何も答えようとしない。
「学校はどう?もうすぐ卒業だろ」
「う、うん」
「そっか」
幸彦はマフィンに口をつけた。
「この前はごめんなさい」
愛がか細い声を搾り出すように告げた。
「え?ああ。いいよ、大切な用があったんでしょ」
「ううん、違うの」
彼女はそう言ったきり、黙り込んだ。
目には大粒の泪を浮かべている愛は明らかに動揺している。幸彦はポケットからハンカチを取り出し、愛に手渡した。彼女はそれを受け取ると、目頭にそっとハンカチを当てた。
「何があったの」
「私、来年の春に結婚することになった」
愛はしゃくり上げながら、ゆっくりと話し始めた。
「あの日、あなたの家に向かっていたの。でも途中で彼に見つかってしまったの。それで・・・」
「どうして泣くんだよ」
「私、あの日・・・彼に・・・」
愛はそう言うと、号泣し始めた。
幸彦は愛の様子で全てを悟った。
「わかったから泣くなよ」
幸彦は愛の肩にそっと手を置いた。
「私・・・やっぱり彼を好きになれないって気づいた」
「江田島さん」
「私、あなたを好きになってしまった」
愛は溢れる泪を拭った。
突然の告白に、幸彦は一瞬戸惑った。
何も言えなかったが、幸彦は泣きじゃくる愛を心から愛おしいと思った。
幸彦は愛の手をぐっと引き寄せると、細い体を強く強く抱き締めた。
「俺も君が大好きだ」
愛は幸彦の肩に体を預け、小さく頷いた。
二人は連れ立ってバーガーショップを出た。
その二人の手はしっかりと繋がれている。
そして郊外に向けて出発しようとしているバスを見つけ、二人はバスに滑り込むように乗り込んだ。
「どこに行くの」
まだ息を切らしている愛が幸彦に訊いた。
幸彦はにっこりと微笑んだ。
「初デートと言えば、遊園地だろ」
愛は声を上げて笑った。
土曜日の遊園地で二人は時間を忘れてジェットコースターやバイキングなどの乗り物を楽しんだ。
愛は子供のようにはしゃぎ、急降下する乗り物では幸彦に抱きついた。
遊園地の片隅のベンチで、二人は沈もうとしている太陽を見つめていた。
何も言わず、やがて迎えようとしている夜までの僅かな時間を二人は共有している。
「楽しいね」
「うん、すごく楽しい」
愛は幸彦の手に自分のそれを重ねた。
彼女が幸彦の顔を切なそうに見つめる。
その視線に気づき、幸彦もゆっくりと視線を合わせた。
二人の顔が自然に近づき、唇を重ねた。
長い長い口づけだった。
二人は窓から差し込む月明かりの下でじっと体を寄せ合っていた。
「このままでいいから、ずっと一緒にいたい」
愛が小さくつぶやくように告げる。
幸彦は愛の顔を引き寄せ、キスをした。愛も幸彦の顔に手を当てる。
二人の手という手が、お互いを求めるようにもつれだした。
生まれたままの姿で、二人は何度もキスをした。愛の腕がしっかりと幸彦の体を抱き締める。
幸彦もそれに答えるように抱き締める。
愛の体に幸彦がゆっくりと進むと、彼女は歓喜の声を上げてそれを迎えた。
泪の跡が、月明かりに照らされる。
幸彦の背中が、細い体を包み込む。
そして時間を惜しむかのように、二人は何度もお互いを感じながらその想いを遂げた。
続く
昨夜は部長と同行営業で、居酒屋の店主と意気投合してしまった。
2軒目のスナックでは少々飲みすぎた。
最近新しく買ったベッドがまだ体に馴染まない。
前のように畳に布団を直接敷くのが一番体にも良さそうだ。
幸彦はいつものようにコーヒーサーバーにスイッチを入れた。
今日は土曜日。
潮企画は週休二日制ではなかったので、思い切って有給休暇を使ってみた。
最近新規の営業に力を入れ思いのほか調子が良かったので、いつもなら休暇申請を渋る部長も快く申請を承諾してくれた。
コーヒーメーカーから心地よいコポコポというリズムが出来上がりを知らせた。
幸彦は出来立てのコーヒーに口をつけ、ふっとため息をついた。
愛から連絡が来なくなり、もう1ヶ月は経つだろうか。
幸彦のアパートで夕飯を一緒にする約束を一方的に反故にされたが、翌日は会社の前に来てくれていたのに。
あの日、何があったのだろう。
何度も幸彦はメールをしたり、電話もかけたが返信すら来ない。
よっぽど嫌われてしまったのかと思ったが、思い当たるようなこともない。
「ありゃ」
戸棚を開けると、朝食用にストックしているシリアルが全くなくなっている。
ここのところ忙しくしていたため、スーパーにすら行くことが出来なかった。
幸彦はパーカーを羽織り駅前のカフェに出かけることにした。
少しづつ風が冷たくなって来ている。
もうすっかり季節が秋の匂いを感じさせている。
幸彦はまだ人の息遣いの少ない街でうーんと背筋を伸ばした。
早起きもいいもんだな。
まだ8時を少し回ったばかり。
商店街のシャッターはひとつも空いていない。
久しぶりに出向くカフェの前に辿りつくと、幸彦は思わずぎょっとした。
カフェのドアには「諸事情により閉店します」の張り紙がしてある。
無理もない、この不況でこの商店街もすっかり寂れてしまった。
朝食を得る術をなくした幸彦は、さらに先のバーガーショップを目指すことにした。
しばらく歩くと、カフェから1キロほど離れたバーガーショップの看板を認めた。
朝から思いがけない運動になってしまったので、幸彦はすっかり腹を空かせている自分に気がついた。
ようやくたどり着いたショップで愛想笑いを浮かべる店員にモーニングセットを頼み、幸彦はトレーを持ち2階に上がった。
まだ人もまばらな2階の片隅でコーヒーを飲んでいる白い横顔を見つけた。
その横顔が、立ち尽くす幸彦に気づいて狼狽した。
「久しぶり」
愛がぎこちない微笑を浮かべている。
「こんなところで会うなんて珍しいね」
「そうだね」
「ここいいかな?座っても」
愛が頷き、幸彦は隣に腰を下ろした。
「元気そうだね」
何を話していいかわからなかった幸彦は取りあえず当たり障りのない会話をしてみた。
愛はじっと考え込んでいる表情のまま、何も答えようとしない。
「学校はどう?もうすぐ卒業だろ」
「う、うん」
「そっか」
幸彦はマフィンに口をつけた。
「この前はごめんなさい」
愛がか細い声を搾り出すように告げた。
「え?ああ。いいよ、大切な用があったんでしょ」
「ううん、違うの」
彼女はそう言ったきり、黙り込んだ。
目には大粒の泪を浮かべている愛は明らかに動揺している。幸彦はポケットからハンカチを取り出し、愛に手渡した。彼女はそれを受け取ると、目頭にそっとハンカチを当てた。
「何があったの」
「私、来年の春に結婚することになった」
愛はしゃくり上げながら、ゆっくりと話し始めた。
「あの日、あなたの家に向かっていたの。でも途中で彼に見つかってしまったの。それで・・・」
「どうして泣くんだよ」
「私、あの日・・・彼に・・・」
愛はそう言うと、号泣し始めた。
幸彦は愛の様子で全てを悟った。
「わかったから泣くなよ」
幸彦は愛の肩にそっと手を置いた。
「私・・・やっぱり彼を好きになれないって気づいた」
「江田島さん」
「私、あなたを好きになってしまった」
愛は溢れる泪を拭った。
突然の告白に、幸彦は一瞬戸惑った。
何も言えなかったが、幸彦は泣きじゃくる愛を心から愛おしいと思った。
幸彦は愛の手をぐっと引き寄せると、細い体を強く強く抱き締めた。
「俺も君が大好きだ」
愛は幸彦の肩に体を預け、小さく頷いた。
二人は連れ立ってバーガーショップを出た。
その二人の手はしっかりと繋がれている。
そして郊外に向けて出発しようとしているバスを見つけ、二人はバスに滑り込むように乗り込んだ。
「どこに行くの」
まだ息を切らしている愛が幸彦に訊いた。
幸彦はにっこりと微笑んだ。
「初デートと言えば、遊園地だろ」
愛は声を上げて笑った。
土曜日の遊園地で二人は時間を忘れてジェットコースターやバイキングなどの乗り物を楽しんだ。
愛は子供のようにはしゃぎ、急降下する乗り物では幸彦に抱きついた。
遊園地の片隅のベンチで、二人は沈もうとしている太陽を見つめていた。
何も言わず、やがて迎えようとしている夜までの僅かな時間を二人は共有している。
「楽しいね」
「うん、すごく楽しい」
愛は幸彦の手に自分のそれを重ねた。
彼女が幸彦の顔を切なそうに見つめる。
その視線に気づき、幸彦もゆっくりと視線を合わせた。
二人の顔が自然に近づき、唇を重ねた。
長い長い口づけだった。
二人は窓から差し込む月明かりの下でじっと体を寄せ合っていた。
「このままでいいから、ずっと一緒にいたい」
愛が小さくつぶやくように告げる。
幸彦は愛の顔を引き寄せ、キスをした。愛も幸彦の顔に手を当てる。
二人の手という手が、お互いを求めるようにもつれだした。
生まれたままの姿で、二人は何度もキスをした。愛の腕がしっかりと幸彦の体を抱き締める。
幸彦もそれに答えるように抱き締める。
愛の体に幸彦がゆっくりと進むと、彼女は歓喜の声を上げてそれを迎えた。
泪の跡が、月明かりに照らされる。
幸彦の背中が、細い体を包み込む。
そして時間を惜しむかのように、二人は何度もお互いを感じながらその想いを遂げた。
続く
なかなか更新できないw
最近ずっとおやすみしてます〜申し訳ない><;
気乗りがしないと書かないという管理人のものすごいだらしない癖が炸裂wwwww
まー、最近土日はうだうだしているんですけどね^^;
10月からはもっとちゃんとやりますw
パソコン買い換えて2ヶ月ですが、IME使いにくい〜〜〜
変換にいらついているのも理由のひとつかも。。。
もうちょっと触り慣れないとな〜・・・
とにかくすんまへん〜
気乗りがしないと書かないという管理人のものすごいだらしない癖が炸裂wwwww
まー、最近土日はうだうだしているんですけどね^^;
10月からはもっとちゃんとやりますw
パソコン買い換えて2ヶ月ですが、IME使いにくい〜〜〜
変換にいらついているのも理由のひとつかも。。。
もうちょっと触り慣れないとな〜・・・
とにかくすんまへん〜
ふたり〜chapter8〜
郊外から街を見下ろすホテルから見た夜景はどんなにか美しいだろう。
これが、愛する人と一緒だったなら。
愛は遠くにかすかに見える街の灯りを見ながら裸の体にバスローブをそっと羽織った。
雅也は寝息を立てながらすやすやと眠っている。そんな彼を横目に見ながら愛は気づかれないようにベッドから滑り出た。
雅也に抱かれながら愛は幸彦の笑顔が目の前を何度もよぎった。
私は幸彦を好きになってしまっている。
そう気づいた瞬間だった。
雅也と結ばれながら、愛は幸彦に満たされている自分に気づいていた。心の氷を溶かすように、幸彦はいつも微笑んでくれた。氷は音を立てて溶け始め、自分の心にゆっくりと入ってきた幸彦を愛さずにはいられなかった。
「起きてたんだ」
ベッドサイドで立ち尽くす愛に雅也が気づいていた。
「・・・」
愛は雅也を振り向きもせず窓から見える灯りを見つめたままだった。
「この前俺が言った言葉に傷ついたんだろう?」
「傷ついてなんかない」
愛は言葉に感情を込めなかった。
「俺たちは結婚するんだから、よそ見は困るよ」
雅也の放った言葉に愛は全てを悟った。
この人は、私を愛してなんかいない。
ただ、自分という人間を守るために私と婚約したのだ。
愛はベッドサイドに立ち尽くしたまま、ゆっくりと雅也を振り返った。
「私は自分の生きたいように生きたかった」
「無理だろう?自分の親を見てりゃ解るだろうに」
「あなたという人間に人生を預けることは」
愛は自分の体が怒りで震えているのが解った。
「死んでしまうということと同じことだわ、さっき解った」
雅也は唖然とした表情を浮かべた。
「つまり、俺との結婚は嫌だということかな」
「いいえ」
「どういうことだよ」
「本当に嫌です、許されるならこのまま死にたい」
愛の言葉に雅也はくくっと笑って愛を見上げた。
「一生言ってろよ」
雅也はベッドから出ると服を着替え出した。
そして素早くネクタイを締めると、バスローブ姿の愛を横目で見た。
「おまえの親の命は俺が握ってるんだからな」
吐き捨てるようにそう言うと雅也は部屋のドアを開け、振り返りもせず告げた。
「おまえの大好きなあいつのこともな」
「・・・・!」
愛が言葉にならない叫びを発しようとするのを確認すると、雅也は部屋を出て行った。
愛は床にへなへなと座り込んだ。
市原幸彦は、その日仕事が手につかなかった。
昨夜は一睡もできなかった。
愛は約束を破るような人間ではないことを彼だけは解っていた。
携帯を何度も鳴らしたが、ずっと繋がらなかった。
デスクから見える外の日差しが眩しかったので幸彦はブラインドを閉めようとした。
窓から見える階下に愛の姿を認め、幸彦は手を振った。
愛はじっと幸彦の姿を見上げたまま微動だにしなかった。
そして目を伏せて項垂れ、くるりと背を向けて歩き出した。
幸彦はどんどん小さくなる愛の姿を目で追った。
何があったのか。
でも彼女を追ってはいけない、そんな気がした。
続く
これが、愛する人と一緒だったなら。
愛は遠くにかすかに見える街の灯りを見ながら裸の体にバスローブをそっと羽織った。
雅也は寝息を立てながらすやすやと眠っている。そんな彼を横目に見ながら愛は気づかれないようにベッドから滑り出た。
雅也に抱かれながら愛は幸彦の笑顔が目の前を何度もよぎった。
私は幸彦を好きになってしまっている。
そう気づいた瞬間だった。
雅也と結ばれながら、愛は幸彦に満たされている自分に気づいていた。心の氷を溶かすように、幸彦はいつも微笑んでくれた。氷は音を立てて溶け始め、自分の心にゆっくりと入ってきた幸彦を愛さずにはいられなかった。
「起きてたんだ」
ベッドサイドで立ち尽くす愛に雅也が気づいていた。
「・・・」
愛は雅也を振り向きもせず窓から見える灯りを見つめたままだった。
「この前俺が言った言葉に傷ついたんだろう?」
「傷ついてなんかない」
愛は言葉に感情を込めなかった。
「俺たちは結婚するんだから、よそ見は困るよ」
雅也の放った言葉に愛は全てを悟った。
この人は、私を愛してなんかいない。
ただ、自分という人間を守るために私と婚約したのだ。
愛はベッドサイドに立ち尽くしたまま、ゆっくりと雅也を振り返った。
「私は自分の生きたいように生きたかった」
「無理だろう?自分の親を見てりゃ解るだろうに」
「あなたという人間に人生を預けることは」
愛は自分の体が怒りで震えているのが解った。
「死んでしまうということと同じことだわ、さっき解った」
雅也は唖然とした表情を浮かべた。
「つまり、俺との結婚は嫌だということかな」
「いいえ」
「どういうことだよ」
「本当に嫌です、許されるならこのまま死にたい」
愛の言葉に雅也はくくっと笑って愛を見上げた。
「一生言ってろよ」
雅也はベッドから出ると服を着替え出した。
そして素早くネクタイを締めると、バスローブ姿の愛を横目で見た。
「おまえの親の命は俺が握ってるんだからな」
吐き捨てるようにそう言うと雅也は部屋のドアを開け、振り返りもせず告げた。
「おまえの大好きなあいつのこともな」
「・・・・!」
愛が言葉にならない叫びを発しようとするのを確認すると、雅也は部屋を出て行った。
愛は床にへなへなと座り込んだ。
市原幸彦は、その日仕事が手につかなかった。
昨夜は一睡もできなかった。
愛は約束を破るような人間ではないことを彼だけは解っていた。
携帯を何度も鳴らしたが、ずっと繋がらなかった。
デスクから見える外の日差しが眩しかったので幸彦はブラインドを閉めようとした。
窓から見える階下に愛の姿を認め、幸彦は手を振った。
愛はじっと幸彦の姿を見上げたまま微動だにしなかった。
そして目を伏せて項垂れ、くるりと背を向けて歩き出した。
幸彦はどんどん小さくなる愛の姿を目で追った。
何があったのか。
でも彼女を追ってはいけない、そんな気がした。
続く
ふたり〜chapter7〜
愛は大学の講義には週一回ほど出て単位を取れば、卒業を迎えることができるようになっていた。
でもあと半年して卒業すれば、上杉雅也と結婚して家庭に入ることも決まっている。
自分の人生。
何不自由なく育った自分。
愛する兄を失い、自分の心までも失ってしまった自分。
私は一体、何のために結婚するのだろう。
単なる罪滅ぼし。
だけど父と母には申し訳ないことをしてしまった。
兄が死んでしまい会社の経営危機を招いたのも、自分のせいなのだと愛は深く傷ついていた。
その日、大学の講義を終えた愛は幸彦の家に持って行く食材を両手に抱えながら、考え事をしていた。
自分の人生はこのまま、喜びを知らないまま朽ちて行くように終わるのだろうか。
雅也の心に自分は住んでいない。
おそらく、きっと自分の心にも雅也はいない。
雅也を感じることなく、誰も感じることなく生きていくのだ。
婚約を父から命じられた時に、それは解っていたはずだった。
本当は結婚したくないという自分を押し殺した。
交差点に差し掛かり、愛は横断歩道で信号待ちをしていた。
その時、黒いセルシオが愛の前に止まった。
助手席の窓が音もなく開き、運転席の雅也がにっこりと微笑んで手を振っていた。
「愛さん!乗って」
「上杉さん」
愛は窓に手を掛けた。
「今日はちょっと用があるんです」
「何の用なの?緊急なの?」
そう問いかける雅也の口調には明らかに訝しがる響きがあった。
黒いセルシオはハザードを出し、雅也はドアを開けて運転席から降りてきた。
そして愛の前に出ると、彼女の腕を掴んだ。
「痛い」
その手の力に愛は思わず顔をしかめた。
「緊急じゃないならいいでしょ、食事くらい。僕たちは婚約してるんだから」
雅也はそう言うと、助手席のドアを開けて愛を促した。
「・・・」
愛は無言のまま、仕方なく車に乗り込んだ。
「どこに行くつもりだったの」
ハンドルを軽やかに操りながら雅也が訊いてきた。
愛は体をぴくっと震わせた。
「いえ、ちょっとお友達の家でご飯作って食べようと思って」
「市原んとこだろ」
低い声で雅也が問い返して来たので、愛は思わず絶句した。
「知ってるよ、奴と会ってるのも」
「上杉さん」
「奴のことが好きなのか、俺と婚約してるのに」
雅也の声は低く、冷たい響きを湛えていた。
「そんなんじゃないです」
「でも独身男の家に行くのは感心しないな」
「お友達です、ただの」
「ただの?俺にそういう嘘をつくな。解るんだよ俺は」
雅也はそう言ったきり、黙り込んだ。
黒いセルシオは郊外に向けて走り抜けようとしている。
やがて漆黒の闇が迫り来ようとしている。
愛はどんどん遠ざかる街の光を振り返った。
幸彦の笑顔が涙で霞んで消えた。
幸彦はその日残業を断って急いでアパートに戻っていた。
家中の家具という家具に積もった埃を丁寧に雑巾で拭いた。
絨毯にも掃除機をかけた。
一段落したので幸彦はタバコを取り出して火を点けた。
それにしても遅い。
愛が来ると言っていた時間はとうに2時間は過ぎた。
何かあったのだろうか。
幸彦は窓を開けて空を見上げた。
滅多に見えない星が一つ、遠くの空に見えた。
続く
でもあと半年して卒業すれば、上杉雅也と結婚して家庭に入ることも決まっている。
自分の人生。
何不自由なく育った自分。
愛する兄を失い、自分の心までも失ってしまった自分。
私は一体、何のために結婚するのだろう。
単なる罪滅ぼし。
だけど父と母には申し訳ないことをしてしまった。
兄が死んでしまい会社の経営危機を招いたのも、自分のせいなのだと愛は深く傷ついていた。
その日、大学の講義を終えた愛は幸彦の家に持って行く食材を両手に抱えながら、考え事をしていた。
自分の人生はこのまま、喜びを知らないまま朽ちて行くように終わるのだろうか。
雅也の心に自分は住んでいない。
おそらく、きっと自分の心にも雅也はいない。
雅也を感じることなく、誰も感じることなく生きていくのだ。
婚約を父から命じられた時に、それは解っていたはずだった。
本当は結婚したくないという自分を押し殺した。
交差点に差し掛かり、愛は横断歩道で信号待ちをしていた。
その時、黒いセルシオが愛の前に止まった。
助手席の窓が音もなく開き、運転席の雅也がにっこりと微笑んで手を振っていた。
「愛さん!乗って」
「上杉さん」
愛は窓に手を掛けた。
「今日はちょっと用があるんです」
「何の用なの?緊急なの?」
そう問いかける雅也の口調には明らかに訝しがる響きがあった。
黒いセルシオはハザードを出し、雅也はドアを開けて運転席から降りてきた。
そして愛の前に出ると、彼女の腕を掴んだ。
「痛い」
その手の力に愛は思わず顔をしかめた。
「緊急じゃないならいいでしょ、食事くらい。僕たちは婚約してるんだから」
雅也はそう言うと、助手席のドアを開けて愛を促した。
「・・・」
愛は無言のまま、仕方なく車に乗り込んだ。
「どこに行くつもりだったの」
ハンドルを軽やかに操りながら雅也が訊いてきた。
愛は体をぴくっと震わせた。
「いえ、ちょっとお友達の家でご飯作って食べようと思って」
「市原んとこだろ」
低い声で雅也が問い返して来たので、愛は思わず絶句した。
「知ってるよ、奴と会ってるのも」
「上杉さん」
「奴のことが好きなのか、俺と婚約してるのに」
雅也の声は低く、冷たい響きを湛えていた。
「そんなんじゃないです」
「でも独身男の家に行くのは感心しないな」
「お友達です、ただの」
「ただの?俺にそういう嘘をつくな。解るんだよ俺は」
雅也はそう言ったきり、黙り込んだ。
黒いセルシオは郊外に向けて走り抜けようとしている。
やがて漆黒の闇が迫り来ようとしている。
愛はどんどん遠ざかる街の光を振り返った。
幸彦の笑顔が涙で霞んで消えた。
幸彦はその日残業を断って急いでアパートに戻っていた。
家中の家具という家具に積もった埃を丁寧に雑巾で拭いた。
絨毯にも掃除機をかけた。
一段落したので幸彦はタバコを取り出して火を点けた。
それにしても遅い。
愛が来ると言っていた時間はとうに2時間は過ぎた。
何かあったのだろうか。
幸彦は窓を開けて空を見上げた。
滅多に見えない星が一つ、遠くの空に見えた。
続く
ふたり〜chapter6〜
愛は今日も手作りの弁当を持って「いつものように」幸彦の会社の近くに来ていた。
もともと料理は得意ではなかった。
しかし、料理というものは一生懸命にすれば美味しく仕上がる。最近では大学の近くの本屋で料理関連の本を立ち読みするのが日課となっていた。
「おーい」
公園のベンチに座っていた幸彦が愛の姿を見かけて手を振っている。
「お待たせ」
そんな幸彦の姿を見ながら、愛はにこやかに駆け寄る。
「いつもありがとう、悪いね」
「いいからいいから」
愛は頭を掻いている幸彦の肩に手をかけて腰掛ける。
「お、今日はエビチリ?」
「朝6時に起きて作ったの」
「意外と家庭的なんだね」
「意外とってどういう意味よ」
愛がむくれて見せると幸彦は小さく舌を出して弁当に箸をつけた。
「ここんところ忙しくて、夜もろくに食べてなくって」
「そうなの?ダメよ、ちゃんと食べないと」
愛が心配そうに幸彦の顔を覗き込む。
幸彦はくすっと笑って愛の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「あたしが時々夕ご飯作ってあげようか?」
愛の言葉に幸彦は少し戸惑いを見せた後、また笑った。
「どうしたの」
そんな幸彦の顔を不思議そうに愛は見つめた。
「だってさ、君は上杉の婚約者でしょ?なんかおかしいと思って」
「え」
「こんなこと、彼が知ったら怒ると思うけど」
幸彦の言葉に愛は下を向いて俯いた。
幸彦が箸を止めて愛を見ると、彼女は幸彦を見つめ返した。
「迷惑かな」
「そんなことない」
「嬉しい?」
「もちろん、嬉しいに決まってるじゃん」
幸彦の言葉に愛は満面の笑顔で応えた。
「ならいいじゃない、今度の週末お家に行くから!」
「大学は大丈夫なの?」
「私は頭いいんだから!任せて」
愛が得意気に手を腰に当てたので幸彦は声を上げて笑った。
「約束だからね」
小指を差し出す愛に、幸彦も指を出して絡める。
「約束破ったら指切っちゃうから」
「解った解った」
そんな二人を憎々しげに見つめる目があった。
「大丈夫でしょうか」
上杉雅也の運転手、北野は声を震わせていた。
雅也はタバコに火をつけながら、にこやかに幸彦に微笑みかける愛をじっと見つめていた。
「俺の同級生だ。人畜無害な男だから、気にする必要はない」
「しかし・・・」
「このことは見なかったことにするんだ、車を出せ」
黒いレクサスは轟音とともに公園のわき道を走り去った。
続く
もともと料理は得意ではなかった。
しかし、料理というものは一生懸命にすれば美味しく仕上がる。最近では大学の近くの本屋で料理関連の本を立ち読みするのが日課となっていた。
「おーい」
公園のベンチに座っていた幸彦が愛の姿を見かけて手を振っている。
「お待たせ」
そんな幸彦の姿を見ながら、愛はにこやかに駆け寄る。
「いつもありがとう、悪いね」
「いいからいいから」
愛は頭を掻いている幸彦の肩に手をかけて腰掛ける。
「お、今日はエビチリ?」
「朝6時に起きて作ったの」
「意外と家庭的なんだね」
「意外とってどういう意味よ」
愛がむくれて見せると幸彦は小さく舌を出して弁当に箸をつけた。
「ここんところ忙しくて、夜もろくに食べてなくって」
「そうなの?ダメよ、ちゃんと食べないと」
愛が心配そうに幸彦の顔を覗き込む。
幸彦はくすっと笑って愛の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「あたしが時々夕ご飯作ってあげようか?」
愛の言葉に幸彦は少し戸惑いを見せた後、また笑った。
「どうしたの」
そんな幸彦の顔を不思議そうに愛は見つめた。
「だってさ、君は上杉の婚約者でしょ?なんかおかしいと思って」
「え」
「こんなこと、彼が知ったら怒ると思うけど」
幸彦の言葉に愛は下を向いて俯いた。
幸彦が箸を止めて愛を見ると、彼女は幸彦を見つめ返した。
「迷惑かな」
「そんなことない」
「嬉しい?」
「もちろん、嬉しいに決まってるじゃん」
幸彦の言葉に愛は満面の笑顔で応えた。
「ならいいじゃない、今度の週末お家に行くから!」
「大学は大丈夫なの?」
「私は頭いいんだから!任せて」
愛が得意気に手を腰に当てたので幸彦は声を上げて笑った。
「約束だからね」
小指を差し出す愛に、幸彦も指を出して絡める。
「約束破ったら指切っちゃうから」
「解った解った」
そんな二人を憎々しげに見つめる目があった。
「大丈夫でしょうか」
上杉雅也の運転手、北野は声を震わせていた。
雅也はタバコに火をつけながら、にこやかに幸彦に微笑みかける愛をじっと見つめていた。
「俺の同級生だ。人畜無害な男だから、気にする必要はない」
「しかし・・・」
「このことは見なかったことにするんだ、車を出せ」
黒いレクサスは轟音とともに公園のわき道を走り去った。
続く
ふたり〜chapter5〜
その日、愛は幸彦に短いメールを送ってみた。
「今何してるの?」
すぐに返信があった。
「今得意先回りをしてる」
そしてすぐさまメール。
「そっか、忙しいんだね」
「ごめんね」
愛は携帯を畳んで講義に集中することにしたが、最近やけに幸彦とメールの交換が多くなっているのに気づいた。
携帯の番号とアドレスを交換して1ヶ月は経つだろうか、それにしても毎日メールを送っている。
「今日はどうだった?」
「今日は職場の飲み会で、少し酔ってる」
「飲みすぎはダメだよ」
「俺はあんまり強くないからむしろ行きたくないんだけど」
「だったら行かなければいいのに」
「そういうわけにもいかないんだ」
「どうして?行きたくないのに」
「サラリーマンだからね」
「理由になってないと思う」
「君にはわからないだろうな」
「私はわからないけど、お兄ちゃんが時々接待で酔って帰ってきたのを覚えてる」
「そなんだ」
「それと同じようなものなの?」
「違うけどね、ちょっと」
「私、世間知らずだね」
「そうだね、いずれわかる日が来ると思う」
二人の他愛もないやりとりは深夜まで続いた。
愛は携帯の充電機に携帯を差込み、電気を消した。
真っ暗な天井を見ると兄の姿がぼんやりと浮かび、それから幸彦の顔が続いて現れた。
あの日、携帯のポートを向けながら幸彦と見つめ合った。
幸彦は神妙な顔をしながら、自分の情報がちゃんと送れているか気にしていた。
私はどんな顔をしていただろうか。
この何年も心から笑ったことはない。
私はいつ笑えるのだろうか。
兄を失ってからは笑うようなことはないと思った。
気づけば、私は兄の姿を幸彦に重ねている。
雅也という婚約者もいるのに。
愛は珍しく翌日、講義を休んだ。
そして小さなキッチンに立った。
ボウルに卵を割りいれ、甘い卵焼きを焼いた。
それから、冷凍していた鶏肉を解凍してから揚げを作った。
エビフライは少しだけ焦げてしまった。
黄色い弁当箱の表は可愛いパンダがキスをしているイラストが描いてある。
愛はパンダにキスをした。
そして赤いバンダナでリボン結びをして一息ついた。
もうすっかり夏の陽気を迎えていたが、幸彦はその日珍しくデスクワークをしていた。
「市原、メシ行こうぜ」
部長が汗を拭きながら幸彦のデスクに近寄って来た。
「いえ、今日はちょっと」
「何だよ」
「その、友達が会社に来るんで」
「友達とメシか?」
「え、ええ」
幸彦は目を逸らしながらデスク回りを片付けはじめた。
部長は幸彦の様子がいつもと違うのに気がついた。
「コレ、か?」
彼はにやりとしながら小指を幸彦の眼前に突き出した。
幸彦は少しだけ焦った様子を見せたので部長は高笑いを浮かべながら背を向けた。
「お安くないな、ま、頑張れ」
後ろ手に手を振る彼を幸彦は見送った。すると、手元の携帯がブルル、と小さく震えた。
メールの主からだった。
「遅いよ」
愛は近くの公園でむくれていた。
幸彦は息を切らしながら、流れ出る汗をしわくちゃのハンカチで拭いている。
「ごめん、部長と話してたもんだから」
「お弁当が腐っちゃうじゃないよ」
「わかったわかった、そう怒らないでよ」
幸彦はそのハンカチでベンチをはたいた。
愛は弁当箱を幸彦に渡すと、小さな声で「あんまり自信ないんだけど」と言った。
幸彦はバンダナを解き、蓋を開けた。
「わぁ、うまそう」
「ホント?」
愛のこぼれんばかりの笑顔が彼を見つめる。
「食べて食べて」
「うん・・・あ、卵焼き旨いよ!やっぱ甘くないとね」
弁当と格闘している幸彦の姿を見つめながら、愛は自分が笑っているのに気づいた。
「何笑ってんだよ」
「何でもないよ」
二人は声を上げて笑った。
愛は屈託なく笑う幸彦を見つめながら、今日の弁当の出来に100点をつけた。
続く
「今何してるの?」
すぐに返信があった。
「今得意先回りをしてる」
そしてすぐさまメール。
「そっか、忙しいんだね」
「ごめんね」
愛は携帯を畳んで講義に集中することにしたが、最近やけに幸彦とメールの交換が多くなっているのに気づいた。
携帯の番号とアドレスを交換して1ヶ月は経つだろうか、それにしても毎日メールを送っている。
「今日はどうだった?」
「今日は職場の飲み会で、少し酔ってる」
「飲みすぎはダメだよ」
「俺はあんまり強くないからむしろ行きたくないんだけど」
「だったら行かなければいいのに」
「そういうわけにもいかないんだ」
「どうして?行きたくないのに」
「サラリーマンだからね」
「理由になってないと思う」
「君にはわからないだろうな」
「私はわからないけど、お兄ちゃんが時々接待で酔って帰ってきたのを覚えてる」
「そなんだ」
「それと同じようなものなの?」
「違うけどね、ちょっと」
「私、世間知らずだね」
「そうだね、いずれわかる日が来ると思う」
二人の他愛もないやりとりは深夜まで続いた。
愛は携帯の充電機に携帯を差込み、電気を消した。
真っ暗な天井を見ると兄の姿がぼんやりと浮かび、それから幸彦の顔が続いて現れた。
あの日、携帯のポートを向けながら幸彦と見つめ合った。
幸彦は神妙な顔をしながら、自分の情報がちゃんと送れているか気にしていた。
私はどんな顔をしていただろうか。
この何年も心から笑ったことはない。
私はいつ笑えるのだろうか。
兄を失ってからは笑うようなことはないと思った。
気づけば、私は兄の姿を幸彦に重ねている。
雅也という婚約者もいるのに。
愛は珍しく翌日、講義を休んだ。
そして小さなキッチンに立った。
ボウルに卵を割りいれ、甘い卵焼きを焼いた。
それから、冷凍していた鶏肉を解凍してから揚げを作った。
エビフライは少しだけ焦げてしまった。
黄色い弁当箱の表は可愛いパンダがキスをしているイラストが描いてある。
愛はパンダにキスをした。
そして赤いバンダナでリボン結びをして一息ついた。
もうすっかり夏の陽気を迎えていたが、幸彦はその日珍しくデスクワークをしていた。
「市原、メシ行こうぜ」
部長が汗を拭きながら幸彦のデスクに近寄って来た。
「いえ、今日はちょっと」
「何だよ」
「その、友達が会社に来るんで」
「友達とメシか?」
「え、ええ」
幸彦は目を逸らしながらデスク回りを片付けはじめた。
部長は幸彦の様子がいつもと違うのに気がついた。
「コレ、か?」
彼はにやりとしながら小指を幸彦の眼前に突き出した。
幸彦は少しだけ焦った様子を見せたので部長は高笑いを浮かべながら背を向けた。
「お安くないな、ま、頑張れ」
後ろ手に手を振る彼を幸彦は見送った。すると、手元の携帯がブルル、と小さく震えた。
メールの主からだった。
「遅いよ」
愛は近くの公園でむくれていた。
幸彦は息を切らしながら、流れ出る汗をしわくちゃのハンカチで拭いている。
「ごめん、部長と話してたもんだから」
「お弁当が腐っちゃうじゃないよ」
「わかったわかった、そう怒らないでよ」
幸彦はそのハンカチでベンチをはたいた。
愛は弁当箱を幸彦に渡すと、小さな声で「あんまり自信ないんだけど」と言った。
幸彦はバンダナを解き、蓋を開けた。
「わぁ、うまそう」
「ホント?」
愛のこぼれんばかりの笑顔が彼を見つめる。
「食べて食べて」
「うん・・・あ、卵焼き旨いよ!やっぱ甘くないとね」
弁当と格闘している幸彦の姿を見つめながら、愛は自分が笑っているのに気づいた。
「何笑ってんだよ」
「何でもないよ」
二人は声を上げて笑った。
愛は屈託なく笑う幸彦を見つめながら、今日の弁当の出来に100点をつけた。
続く
ふたり〜chapter4〜
なぜ私はあんなことを言ってしまったんだろう。
秋山美奈は軽い頭痛とともに起き上がった。
あの、江田島愛の持っているものが全てうらやましかったのだ。
大学生という本当にお気楽な立場、お金持ちのお嬢様。それに婚約者もいる。
将来を約束されたセレブな人生が彼女を待っている。
美奈は軽く汗ばんだ身体が、急速に冷えていくのが解った。夏を迎えようというのに、身震いがしたので起き上がってバスローブを羽織った。
「どうしたの」
ベッドで男は目をこすっている。
「起こしちゃった?ごめん」
美奈は舌を出した。
「ねえ、彼女どうしたかな」
美奈の問いに答えようもせず、男は・・・上杉雅也は身体を起こした。
「決して意地悪なんかじゃないのよ」
美奈の様子を窺う言葉が雅也の勘をくすぐった。
「アレでよかったんじゃない」
雅也は無表情のままベッドから出ると、勝手を全て知っているかのようにキッチンに向かい冷蔵庫から炭酸水を出した。
「事実だからね、あんなおもしろくない女と一緒になるのはごめんだよ」
「あら、でも結婚はするんでしょ」
美奈はむくれた。
結婚することを否定してもらいたい気持ちと、雅也との関係を終わらせたい心が闘っている。
「結婚するよ」
美奈の希望を全て打ち砕いた雅也の答えに美奈の心は思いがけず揺れた。
「私はそんなあなたが好きだから」
「俺も愛してるよ、それなりに」
感情の一片すら感じさせない雅也の言葉。
「それなりに?それなりって・・・」
「結婚しても俺は君とは別れないよ」
雅也は美奈の羽織っているバスローブをゆっくりと肩からずらしていった。
「本当?本当ね?」
雅也の指が美奈の胸の谷間をゆっくりとなぞりながら、滑り落ちる。
やがて美奈の一番敏感なところにたどり着くと、その指は激しく動き出した。
「あ・・・あ・・・」
美奈は理性を失いだした。
雅也の舌先が美奈の唇を塞ぐと、二人はもつれ合ってベッドの中で溶けるようにお互いを貪りあった。
幸彦はその日、クライアントからアポイントのキャンセルが入ったので思いがけず会社を早く出た。
アポイントがキャンセルになったにも拘らず、珍しく部長が上機嫌だった。
「たまにはリフレッシュするか」
その弾んだような一声に小さな事務所は沸き返った。
この一週間、ほとんど帰宅が午前様となったいた。幸彦は辺りを見渡したが、まだ夕暮れを迎えたばかりの町並みが本当に珍しかった。
いつもは店仕舞いしているカフェも今日は開いている。
幸彦はカフェのドアを押してエアコンの効いた店内に入る。
すると、店の奥のほうのテーブルで外を見ている細面の横顔が目に飛び込んできた。
江田島愛だった。
幸彦の視線に気づいた愛がぴょこんと頭を下げる。幸彦は愛の座るテーブルに駆け寄った。
「ここ、いつも来るの」
「ここで夕暮れを眺めるのが好きなの」
愛はそう言うと、にっこり微笑んだ。
「ここ、座りませんか」
愛の誘いに幸彦はホッとして彼女の対面に座った。
「学校はも終わったの?」
「ああ、私3年でほとんど単位は取ってしまったので週に1回、大学に行くだけ」
「へー、優秀なんだね」
「そんなことない」
幸彦はアイスコーヒーに口をつけ、あの夜彼女を抱きしめた自分を思い出した。
「何?」
不意に黙り込んだ幸彦の顔を下から覗き込むように愛が問いかけた。
「あ、ああ」
「この前のこと?」
愛はくすくすと笑い出した。
「う、うん」
下を向いた幸彦に、とびきりの笑顔で愛は答えた。
「ありがとう、追いかけてくれて何だか嬉しかった」
幸彦も愛の笑顔に誘われるかのように微笑んだ。
「携帯聞いていい?」
愛が白い携帯電話を取り出したので幸彦も自分のそれを取り出した。
「赤外線で私のデータ送るね」
携帯のポートを二人は合わせながら二人は見詰め合った。
続く
秋山美奈は軽い頭痛とともに起き上がった。
あの、江田島愛の持っているものが全てうらやましかったのだ。
大学生という本当にお気楽な立場、お金持ちのお嬢様。それに婚約者もいる。
将来を約束されたセレブな人生が彼女を待っている。
美奈は軽く汗ばんだ身体が、急速に冷えていくのが解った。夏を迎えようというのに、身震いがしたので起き上がってバスローブを羽織った。
「どうしたの」
ベッドで男は目をこすっている。
「起こしちゃった?ごめん」
美奈は舌を出した。
「ねえ、彼女どうしたかな」
美奈の問いに答えようもせず、男は・・・上杉雅也は身体を起こした。
「決して意地悪なんかじゃないのよ」
美奈の様子を窺う言葉が雅也の勘をくすぐった。
「アレでよかったんじゃない」
雅也は無表情のままベッドから出ると、勝手を全て知っているかのようにキッチンに向かい冷蔵庫から炭酸水を出した。
「事実だからね、あんなおもしろくない女と一緒になるのはごめんだよ」
「あら、でも結婚はするんでしょ」
美奈はむくれた。
結婚することを否定してもらいたい気持ちと、雅也との関係を終わらせたい心が闘っている。
「結婚するよ」
美奈の希望を全て打ち砕いた雅也の答えに美奈の心は思いがけず揺れた。
「私はそんなあなたが好きだから」
「俺も愛してるよ、それなりに」
感情の一片すら感じさせない雅也の言葉。
「それなりに?それなりって・・・」
「結婚しても俺は君とは別れないよ」
雅也は美奈の羽織っているバスローブをゆっくりと肩からずらしていった。
「本当?本当ね?」
雅也の指が美奈の胸の谷間をゆっくりとなぞりながら、滑り落ちる。
やがて美奈の一番敏感なところにたどり着くと、その指は激しく動き出した。
「あ・・・あ・・・」
美奈は理性を失いだした。
雅也の舌先が美奈の唇を塞ぐと、二人はもつれ合ってベッドの中で溶けるようにお互いを貪りあった。
幸彦はその日、クライアントからアポイントのキャンセルが入ったので思いがけず会社を早く出た。
アポイントがキャンセルになったにも拘らず、珍しく部長が上機嫌だった。
「たまにはリフレッシュするか」
その弾んだような一声に小さな事務所は沸き返った。
この一週間、ほとんど帰宅が午前様となったいた。幸彦は辺りを見渡したが、まだ夕暮れを迎えたばかりの町並みが本当に珍しかった。
いつもは店仕舞いしているカフェも今日は開いている。
幸彦はカフェのドアを押してエアコンの効いた店内に入る。
すると、店の奥のほうのテーブルで外を見ている細面の横顔が目に飛び込んできた。
江田島愛だった。
幸彦の視線に気づいた愛がぴょこんと頭を下げる。幸彦は愛の座るテーブルに駆け寄った。
「ここ、いつも来るの」
「ここで夕暮れを眺めるのが好きなの」
愛はそう言うと、にっこり微笑んだ。
「ここ、座りませんか」
愛の誘いに幸彦はホッとして彼女の対面に座った。
「学校はも終わったの?」
「ああ、私3年でほとんど単位は取ってしまったので週に1回、大学に行くだけ」
「へー、優秀なんだね」
「そんなことない」
幸彦はアイスコーヒーに口をつけ、あの夜彼女を抱きしめた自分を思い出した。
「何?」
不意に黙り込んだ幸彦の顔を下から覗き込むように愛が問いかけた。
「あ、ああ」
「この前のこと?」
愛はくすくすと笑い出した。
「う、うん」
下を向いた幸彦に、とびきりの笑顔で愛は答えた。
「ありがとう、追いかけてくれて何だか嬉しかった」
幸彦も愛の笑顔に誘われるかのように微笑んだ。
「携帯聞いていい?」
愛が白い携帯電話を取り出したので幸彦も自分のそれを取り出した。
「赤外線で私のデータ送るね」
携帯のポートを二人は合わせながら二人は見詰め合った。
続く
ふたり〜chapter3〜
昨夜遅くから振り出した雨が降り止まないでいた。
季節はやがて夏を迎えようとしているのだろう、じとじとと蒸し暑い。
愛は久し振りに友人の真紀子と会う約束をしており、大学の近くの喫茶店で真紀子を待っていた。
運ばれてきたアイスコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎ、一息ついてストローでかき混ぜてみる。
昨夜、市原幸彦から抱きしめられた。
しっかりと抱きしめられた。
婚約者の友人に涙を見せてしまったことを愛は後悔した。
抱きしめられてしまったことも。
私はもう恋をしない。
そう決めて親の言う相手と婚約した。
兄を愛してしまった罰を受けるつもりで。
なのに、私の心を乱そうとする相手が現れた。彼の、市原幸彦の胸の温かさが凍てついた愛の心にほんの少しの亀裂を入れたという事実を、まだ彼女は受け容れることが出来なかった。
涙を見せてしまったという隙を相手に与えてしまったのだ。
あっさりと雅也と結婚してしまおう。
そうしてしまえば、諦めもつくというものだ。
愛は小さくため息をついた。
すると、真紀子が喫茶店の木製のドアを勢い良く開ける音が聞こえた。彼女はすぐに愛を見つけ、バタバタと愛の座る席にやってきた。
「ごめんねー、遅れちゃった」
真紀子は雨で濡れた黒縁のメガネを外しながら席に着いた。
彼女は理系の大学に進み、そのまま大学院に進むことも決まっており、大学の研究室に残って遺伝子工学の研究をすることを決めている。
「どぉ?最近は」
「バカな院生がいてさぁ、うちの教授の論文をそのままパクってんのよ。私がチェックしていたんだけど笑っちゃった。それで奴を呼び出してこてんぱんに怒ってやったの」
真紀子は一息にそう言うと、運ばれてきたキャラメルマキアートに口をつけた。
「愛から呼び出すなんて珍しいね、何かあった?」
したり気な表情を浮かべながら真紀子は愛を見つめた。
「う、ううん。何もないわよ」
「嘘」
真紀子はくすっと笑った。
「何かあると、愛はすぐ一瞬どもるから、解るのよ。付き合いの長い私に嘘は通用しないのよ」
「敵わないなー、真紀子には」
「で、何なの」
真紀子は頬杖をついて愛の言葉を待つ。
「実はね」
婚約者がいるのにその友人に涙を見せてしまったこと、さらに抱きしめられたことを愛は打ち明けた。
真紀子は小さく頷きながら愛の話をじっと聞いていた。
「つまり、その何とか君を愛ちゃんは好きになってしまったということ?」
真紀子はにんまりと微笑んでいる。愛は顔を赤らめた。
「何言ってるのよ、私はもうすぐ結婚するのに」
「おーおー、モテる女はつらいねぇ」
「そんなんじゃないってば!ただ・・・」
「ただ?」
「このまま結婚してしまうことを迷っているかもしれない」
「そうだね、愛は上杉さんのこと好きじゃないもんね」
真紀子は長い睫毛を伏せた。
「仕方がないよ。お父さんの会社はまだ楽じゃないし、私が何とかしないと」
「まだお兄さんとのことを気にしてるの?」
真紀子は正面から愛を睨みつけた。
「起きてしまったことをまだ引きずってるの?」
「だってお兄ちゃんが死んだのは私のせいなんだよ、どうしようもないじゃない」
「お兄さんが亡くなったのは愛のせいじゃないわ。彼があなたを愛してしまったことに責任を感じただけよ」
「同じことよ」
「いつまでも愛がそんなんでお兄さんが浮かばれるわけない。もっと自分に素直になるべきよ」
「解った風なことを言わないで!」
愛は思わず語気を強めてしまった。
真紀子ははっとした表情で小さく「ごめん」と言った。
「でも、結婚してからじゃ遅いのよ。取り返しのつかないことになる」
真紀子は諭すように愛に言った。
「きっと、愛の幸せをお兄さんは祈ってるはずよ。家のことよりも、あなた自身がどうなのかが大事だと思う」
「私はお父さん達を守らないといけないの、迷ってはいけないのよ」
「何を思い上がってるの?たかだか大学生じゃないの、私たち。迷っていいのよ、だって自分の人生じゃない」
真紀子は真っ直ぐに愛を見つめている。
「あの人の匂いがね」
愛は呟くように話し始めた。
「市原さんの匂いが、お兄ちゃんに似てるの」
「愛」
「懐かしくて、優しい匂いがしたの」
愛は真紀子に涙だけは見られまいと思った。
続く
季節はやがて夏を迎えようとしているのだろう、じとじとと蒸し暑い。
愛は久し振りに友人の真紀子と会う約束をしており、大学の近くの喫茶店で真紀子を待っていた。
運ばれてきたアイスコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎ、一息ついてストローでかき混ぜてみる。
昨夜、市原幸彦から抱きしめられた。
しっかりと抱きしめられた。
婚約者の友人に涙を見せてしまったことを愛は後悔した。
抱きしめられてしまったことも。
私はもう恋をしない。
そう決めて親の言う相手と婚約した。
兄を愛してしまった罰を受けるつもりで。
なのに、私の心を乱そうとする相手が現れた。彼の、市原幸彦の胸の温かさが凍てついた愛の心にほんの少しの亀裂を入れたという事実を、まだ彼女は受け容れることが出来なかった。
涙を見せてしまったという隙を相手に与えてしまったのだ。
あっさりと雅也と結婚してしまおう。
そうしてしまえば、諦めもつくというものだ。
愛は小さくため息をついた。
すると、真紀子が喫茶店の木製のドアを勢い良く開ける音が聞こえた。彼女はすぐに愛を見つけ、バタバタと愛の座る席にやってきた。
「ごめんねー、遅れちゃった」
真紀子は雨で濡れた黒縁のメガネを外しながら席に着いた。
彼女は理系の大学に進み、そのまま大学院に進むことも決まっており、大学の研究室に残って遺伝子工学の研究をすることを決めている。
「どぉ?最近は」
「バカな院生がいてさぁ、うちの教授の論文をそのままパクってんのよ。私がチェックしていたんだけど笑っちゃった。それで奴を呼び出してこてんぱんに怒ってやったの」
真紀子は一息にそう言うと、運ばれてきたキャラメルマキアートに口をつけた。
「愛から呼び出すなんて珍しいね、何かあった?」
したり気な表情を浮かべながら真紀子は愛を見つめた。
「う、ううん。何もないわよ」
「嘘」
真紀子はくすっと笑った。
「何かあると、愛はすぐ一瞬どもるから、解るのよ。付き合いの長い私に嘘は通用しないのよ」
「敵わないなー、真紀子には」
「で、何なの」
真紀子は頬杖をついて愛の言葉を待つ。
「実はね」
婚約者がいるのにその友人に涙を見せてしまったこと、さらに抱きしめられたことを愛は打ち明けた。
真紀子は小さく頷きながら愛の話をじっと聞いていた。
「つまり、その何とか君を愛ちゃんは好きになってしまったということ?」
真紀子はにんまりと微笑んでいる。愛は顔を赤らめた。
「何言ってるのよ、私はもうすぐ結婚するのに」
「おーおー、モテる女はつらいねぇ」
「そんなんじゃないってば!ただ・・・」
「ただ?」
「このまま結婚してしまうことを迷っているかもしれない」
「そうだね、愛は上杉さんのこと好きじゃないもんね」
真紀子は長い睫毛を伏せた。
「仕方がないよ。お父さんの会社はまだ楽じゃないし、私が何とかしないと」
「まだお兄さんとのことを気にしてるの?」
真紀子は正面から愛を睨みつけた。
「起きてしまったことをまだ引きずってるの?」
「だってお兄ちゃんが死んだのは私のせいなんだよ、どうしようもないじゃない」
「お兄さんが亡くなったのは愛のせいじゃないわ。彼があなたを愛してしまったことに責任を感じただけよ」
「同じことよ」
「いつまでも愛がそんなんでお兄さんが浮かばれるわけない。もっと自分に素直になるべきよ」
「解った風なことを言わないで!」
愛は思わず語気を強めてしまった。
真紀子ははっとした表情で小さく「ごめん」と言った。
「でも、結婚してからじゃ遅いのよ。取り返しのつかないことになる」
真紀子は諭すように愛に言った。
「きっと、愛の幸せをお兄さんは祈ってるはずよ。家のことよりも、あなた自身がどうなのかが大事だと思う」
「私はお父さん達を守らないといけないの、迷ってはいけないのよ」
「何を思い上がってるの?たかだか大学生じゃないの、私たち。迷っていいのよ、だって自分の人生じゃない」
真紀子は真っ直ぐに愛を見つめている。
「あの人の匂いがね」
愛は呟くように話し始めた。
「市原さんの匂いが、お兄ちゃんに似てるの」
「愛」
「懐かしくて、優しい匂いがしたの」
愛は真紀子に涙だけは見られまいと思った。
続く








